9.Basilica Parrocchia di Santa Maria del Popolo サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂

Basilica Parrocchia di Santa Maria del Popolo
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂

Piazza del Popolo, 12, 00187 Roma RM,
月~土曜日
8時30分~9時45分 10時30分~12時15分 16時00分~18時00分
日曜・祝日
16時30分~18時00分
http://www.agostiniani.it/comunita-agostiniane-provincia/parrocchia-santa-maria-popolo/

館内図

1099年に教皇パスカリス2世が当時のフラミニア門の脇に聖母マリアに捧げる小さな教会を建てさせたのが始まりで、13世紀に市民(ポポロ)の負担で改築したことからこの名がつく。1472年に教皇シクストゥス4世の命により、アンドレア・ブーニョがフラミニア門と結合したルネサンス様式の現在の形に改築した。1500年代初めにブラマンテが後陣を付け加えた。
アレクサンデル7世が枢機卿時代にキージ礼拝堂の整備を依頼し、1665年に教皇になったアレクサンデル7世の命により、キージ礼拝堂の装飾とともにベルニーニが建築にも手を加えている。ファサードに曲線を描くコーニスを加え、翼廊を改修。キージ礼拝堂とともに全体の装飾を手がける。

教会においては、1477年に再建されたサンタ・マリア・デル・ポポロ教会が、ローマにおける最初のルネサンス様式教会といわれ る。この時期約20の教会が新築ないし再建されている。
伝説によれば、ローマの北門「ポポロの門」の近くに皇帝ネロの墓があり、そこに生えている胡桃の木に悪魔が住み、付近の住民に恐れられていた。法王パスカリウス2世(1099-1118年)が、これをどう退治しようかと考えあぐねていると、夢に聖母マリアが現われ、胡桃の木を切り倒し、ネロの遺体を焼き、その灰をテヴェレ河に流すように命じた。法王は、早速これを実行したところ、以降悪魔は現われず、住民は、静かな夜を送れるようになる。法王は、これに感謝しマリアに捧げる礼拝堂を1099年に建築したというのがこの教会の初めといわれている。建設の資金をローマの市民(=popoloポボロ)が負担したので、教会はそれを記念してサンタ・マリア・デル・ポポロ教会と呼ばれるようになった。
その後教会は、13世紀初期に一度再建され、15世紀半ば1472年に、法王シクトウス4世の命で現在見るルネサンス様式に再建され、1500年代の初めには、プラマンテがアプシス(後陣)を付け加えた。教会内部は祈りの場所というより、絵画、彫刻、建築のちょっとした美術館と言ったほうがふさわしいほど、各時代にわたる優れた作品が残されている。

建物正面  ブレニョの手による建物正面は、付柱、三角破風があり、簡索にして明解なルネサンス期の建築的特徴をよく備えています。
内部    また三廊式の内部も、後年ベルニーニによりバロック風に手が加えられたとはいえ、ラテン十字形の平面をなし、翼廊の両端には円形の礼拝堂を有し、身廊の天井には、交差ヴォールトが架けられて、ルネサンス的色彩を残しています。翼廊中央の天井に架けられているクーポラは、ルネサンス様式のものとしてはローマで最初のものといわれています。
この教全は、美術品の宝庫としても有名で、ブラマンテにより拡張された後陣、ラファェロの設計によるキジ礼拝堂、ベルニー二の手による石棺、カラヴァッジヨの「パウロの転向」、「ペテロの磔」、法王シクトウス4世の出たロヴェレ家の礼拝堂にあるピントウリッキオのフレスコ画、サンソヴィーノの彫刻等当時の一流芸術家が腕をふるった作品ばかりです。内陣のアーチには、法王パスカリウスの2世が胡挑の木を切り倒しているスタッコの絵があります。

サンタ・マリア・テル・ポボロ聖堂は,シクストゥス4世が建てたもう1つの建物で,口一マの初期ルネッサンスの最も重要な聖堂.15世紀後半および16世紀初期の最もすぐれた芸術家,アンドレア・プレーニョ,アンドレア・サンソヴィーノ,ピントゥリッキオ,ブラマンテ,ラファェロ,そしてセパスティアーノ・デル・ピオンボらが、建築や装飾に貢献した.1009年に建てられた礼拝堂があった.最初の十字軍によってはじめてイエルサレムが奪回されたことを称えるためのもの.これが拡大され、1472年から77年の間に,アンドレア・プレーニョによる平面計画によって,北からの口ーマへの入ロフラミニア門と結合された。簡素な正面は3分割され両側の曲線を描くコーニスはのちにベルニー二が加えた。3廊式の内部は,さらに側祭室を備え,交差部にローマではじめてクーボラが載った。アプスはブラマンテが拡張し、格子,天井を加えた。交差部ヴォールトは16世紀初めに,ピントウリッキオの見事なフレスコ画で装飾された(聖母、諸聖人,シュピラなど),彼らは当時最も流行っていた古代装飾であるグロテスク紋に縁どられている。アンドレア・プレーニョによる大理石の祭壇(1473年)は,聖具室に移設された。
もう1つの、初期ルネッサンスのモニュメントは,アンドレア・サンソヴィーノによるロドヴィコ・スフォッアの弟、枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(1505年没)めの月事な墓。左側のキージ礼拝堂はラファエロが没する直前に手がけたもので,シエナの銀行家アゴスティーノ・キージのため。ラファエロは,サン・テリジオ・デリ・オレフィチ聖堂のモチーフをさらに巧緻に扱っている。クーポラのモザイクは,ラファェ口の下絵に基づく。「聖母の誕生」はセバスティアーノ,デル・ピオンボが実施。左側の交差部には,カラヴァッジョの傑作「聖パウロの改宗」と「聖ベテロの礫刑」(1601-02)がある。

館内図

1.ローヴェレの礼拝堂Cappella della Rovere
正面入り口から入って右側、最初がローヴェレの礼拝堂で、1400年代の後半ピントウりッキオとその弟子たちの手になるフレスコ画で飾られている。、祭壇の「幼な子キリストの礼拝」L’adorazione del Bambinoは特にすばらしい。

2.チボの礼拝堂Cappella Cybo
17世紀後半のカルロ・フォンターナCarlo Fontanaの設計による。

3.オルガン

4.左翼廊の祭壇

5.後陣

内陣の後ろに延びるのがブラマンテ作のアプシスで、二人の枢機卿の墓がある。16世紀初頭のサンソヴィーノの代表作で、当時の墓の彫刻の伝統であった硬く無表晴な表現から脱して、墓の主たちは自然なポーズで横たわっている。

6.内陣の天井画
内障の天井のフレスコ画はピントゥリッキオの作である

7.カラヴァッジョの礼拝堂(チェラージ礼拝堂)
一方、主祭壇のすぐ左隣には、有名なカラヴァッジョの札拝堂Cappella del Caravaggioがあり、左右の壁を飾るカラヴァッジョの2枚の作品、「聖パオロの改宗」Conversione di S.Paoloと「聖ピエトロの逆さ磔」Crocifissione di S.Pietroは、いずれも1601-02年の間に描かれ画家の円熟期の作品として名高い。

8.キージ家礼拝堂

9.奥の部屋

3.オルガン

このキージ礼拝堂の整備計画は、ファビオ・キージか教皇に即位しアレクサンドラ7世となったことでサンタ・マリア・デル・ポポロ全体の装飾計画に発展した。主としてストウッコによるこれらの装飾は、いつものごとく弟子たちの手で行われたので、とりたてて論ずるまでもないが、ただ一つ右翼廊上部にあるオルガンの面白さが我々の注意を惹く。オルガンと樫の木が一体となったその装飾は、バロック的幻想(ファンタジー)と「転身(メタモルフォシス)」の好例だからである。このオルガンの装飾については、ベルニーニのデッサンが残っているので、彼の脳裏に描かれたイメージがどのようなものだったかを知ることができる。すなわち、そこでは樫の木にオルガンがつつまれ、樫の木がオルガンになり、またオルガンが樫の木になっている。その樫の木は「系図の樹」のようであり、アダムとエヴァの「原罪の樹」のようでもある。だがそれと同時に、キージ家の紋章の樫の木が成長したものでもあるのだ。天上の音楽はそこから流れる、とベルニーニは言っているのである。こうした「着想」と形態の幻想はまったくもってベルニーニ的であり、バロック的である。しかし実際に制作されたオルガンの装飾は、ベルニーニのデッサンのとおりではなく、幻想がだいぶん後退したものとなっている。だがそれでも、そのアール・ヌーヴォーを思わせる装飾は、観る者を充分楽しませてくれる。
先に進んでいくと、ベルニーニが改修工事を担当した翼廊があり、オルガンの下にはいかにもベルニーニらしい天使の像を見ることができる。

Cod.Chigi / Musei Vaticani S.M.デル・ポポロ教会のオルガンのデッサン Progetto per l’organo alla Chiesa di S.M. del Popolo a Roma

4.Altare della Sacra Famiglia / 左翼廊の祭壇の装飾

2022 年 12 月 1 日、サンタ マリア デル ポポロ教会の左翼廊にある祭壇の修復が行われました。「ボルゲーゼ美術館メセナーティ・デッラ・ガッレリア・オンルスローマ遺産」協会の支援のおかげで、ボルゲーゼ美術館だけでなく、ボルゲーゼ美術館やボルゲーゼ市の美術館や記念碑の芸術遺産の促進、保護、強化という称賛に値する活動に取り組んでいます。ローマ(プレゼンテーションではリッカルド・ラトゥアーダとして)は、ベルナルディーノ・メイによる受難の楽器を備えた聖家族を描いた祭壇画、ジョヴァンニ・アントニオ・マリとアントニオ・ラッジによる二人の大きな大理石の天使からなる祭壇を修復することができました。

修復には、アフリカ大理石のフレーム、多色大理石の正面と床、だまし絵の4つの側面ドアとそのフレーム、オーバードア、彫刻が施された巻物など、他のすべての装飾部品が含まれていました。

この祭壇は、教皇アレクサンドル 7 世が望んでいた 1655 年から 1659 年に遡る大規模な介入の一部であり、教皇の家族礼拝堂であるキージ礼拝堂があったサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の内部の再配置と改修を目的としていましたラファエロ作、ジョヴァン・ロレンツォ・ベルニーニ完成。

墓石が乱雑に置かれ、壁が積み上げられていた身廊の内部に秩序を与え、より光を与え、より整然とした、より目に見える外観を与えることに加えて、ベルニーニは、その上に横たわる一連の人物からなる新しい装飾装置を精巧に作り上げました。中央身廊のアーチの上にある棚で、翼廊の祭壇と 2 つのオルガンの聖歌隊席の改修を設計しました。

https://www.aboutartonline.com/risplendono-di-nuova-luce-laltare-del-transetto-sinistro-e-gli-angeli-di-santa-maria-del-popolo-dopo-il-pregevole-restauro/

身廊と翼廊を分ける天井装飾

8.Cappella Chigi / キージ家礼拝堂

左側の壁、入口から2つ目には、ラファエロが設計したキージ家の礼拝堂Cappella Chigiがある。ラファエロは礼拝堂そのものの設計だけでなく、天井のモザイクの下絵も描いている。同礼拝堂にはさらに、ベルニーニの「預言者ハバクク」Abacucと「獅子と預言者ダニエル」Daniele col leoneの彫刻も置かれている。
ブロンズのメダイヨン装飾(手前の三角錐)もしたらしい。
 アレクサンデル7世が枢機卿時代に整備を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロのキージ礼拝堂というのは、前世紀にラファエロが親交のあったアゴスティーノ・キージのために建物と装飾の設計をした、盛期ルネッサンス美術の傑作の一つに数えられる礼拝堂である。ベルニーニは、このうち空いたままになっていた2つの壁龕に納める彫刻を制作し、また床などの装飾を整えて礼拝堂を完成させる仕事を、依頼されたのである。

315.Ashmolean Museum (Oxford)
Ritratto di Sigismondo Chigi

左  Ritratto di Sigismondo Chigi
シジスモンド・キージ

Ritratto di Agostino Chigi

右 Ritratto di Agostino Chigi
アゴスティーノ・キージ

礼拝堂の四隅に設けられた壁龕のうち、奥の2つには、ラファエロのデッサンに基づいてロレンツェットが制作したヨナとエリアの像がすでに納められていた。けれどもベルニーニは、この、うちの一方を手前に移動して、ロレンツェットの2つの作品と彼のハバククとダニエルの像とが、それぞれ対角線上に向い合うように配置換えしている。
彼がこのような作業をした理由は、彼の二つの像があらわす物語を知った上で礼拝堂を訪れれぱすぐに納得がゆく。獅子の穴に投げ込まれたダニエルのところへ、天使に導かれたハバククが食物をとどけるという、このあまり一般的ではない物語は、ダニエル外典の『ベルと竜』の中に出てくる。
ユダヤには預言者ハバククがいた。彼はスープを煮て、裂いたパンを鉢に入れ、刈り入れをしている人びとに持ってゆくために畑に行こうとしていた。すると、主の使いがハバククに言った。「お前の持っている食物をバビロンにはこび、ライオンの穴の中にいるダニエルにやりなさい、ハバククは言った。「主よ、わたしはまだバビロンを見たことがありませんし、その穴も知りません」。すると、主の使いはハバククの頭のてっぺんをとらえ、髪の毛をつかんで引きあげ、ひと息吹くと、ハバククをバビロンの、ダニエルの穴の真上におろした。ハバククは叫んだ。「ダニエル、ダニエル、神があなたに送ってくださった食物をとりなさい」。そこで、ダニエルは言った。「神さま、あなたはわたしをおぽえていてくださった。あなたは、あなたを愛するものをお捨てになりませんでした」。(新見宏訳)

この物語からベルニーニは、まさに天使が微笑みながら、当惑するハバククの髪をつかんでバビロンに連ぽうとするところと、クーポラに描かれた父なる神に、ひざまずいて感謝と祈りの言葉を発するダニエルの像とを制作した。そして前者を礼拝堂の右奥の壁龕に、後者を左手前の壁龕に安置したのである。したがって、礼拝堂でこの作品を観る我々の注意は、礼拝堂を斜めに横ぎり、さらにクーポラへと昇ってゆくことになる。つまり礼拝堂の空間全体が物語の舞台となり、そこに立つ我々は、その物語のただ中にいるように感じるのである。

予言者ハバククとダニエル

「予言者ハバクク」
Abacuc e l’angelo 1655-57.6
天使が微笑みながら、当惑するハバククの髪をつかんでバビロンに運ぼうとするところ
天使の人差し指が折れて欠落している。

Museo Cristiano Sala dei Papiri / Musei Vaticani

「獅子と預言者ダニエル」
Daniele 1655-61.11
クーポラに描かれた父なる神に、ひざまづいて感謝と祈りの言葉を発するダニエル
ダニエルにまとわりつく衣が暗示する神秘的な力によって、ダニエルの肉体は重力から自由になって上昇するように感じられる。そしてその無重力的な脱力状態の肉体よって、ダニエルの法悦と天に向かう祈りとが表現されている。重力を感じさせない彫刻を大理石で達成するのは至難の業であろう。しかもこの作品においては、聖女テレサの法悦のような複雑な衣の表現によるのではなく、ただポーズと一片の布だけでそれが達成されている。
前者を礼拝堂の右奥の壁龕に、後者を左手前の壁龕に安置した。すなわち、礼拝堂でこの作品を見る我々の注意は、礼拝堂を斜めに横切り、さらにクーポラへと昇ってゆくことになる。礼拝堂の空間全体が舞台となるのである。
「おそらく我々より前の時代においても、た彼の時代においても、彼ほど大理石を自在に大胆に扱った者はなかった」とバルディヌッチは記している。このことは、このキージ礼拝堂の2つの作品を見ても痛感することだ。そこには《アポロとダフネ》や《聖女テレサの法悦》のような華々しさはない。だが全体の造形には寸分の隙もなく、かつどの部分にも大理石とほ思えないニュアンスの豊かさと美しさがある。この微妙な大理石の質感の変化を理解するためには、どうしても自然光で作品を見なけれぱならない。彫刻作品一般に言えることだが、教会に備えつけられた照明はしぱしぱ作品の効果を損なう。採光をも作品の一部とみなして現場の光を注意深く考慮し、かつ大理石彫刻のあらゆるニュアンスの表現に誰よりも精通していたベルニーニの彫刻の鑑賞には、とりわけ自然光が大切である。まして強いライトを当てて撮影された図版では、とうてい原作の豊かさは望めない。このキージ礼拝堂の2つの作品をつぶさに観察すると、こうしたことを痛感させられる。この礼拝堂はルネッサンスとバロックとが共存しているため、両者の比較には好都合であるが、光の効果に対する強い関心がバロック美術の特質の一つであることは、この礼拝堂の作品の比較からも明らかであろう。
 この2つの作品は1655年、つまりアレクサンデル7世が教皇の座についてから制作が始められ、ダニエルは57年6月までに完成し、ハバククは61年の11月になってようやく壁龕に納められたことが知られている。この年代から予想されるとおり、2つの像にはベルニーニの晩年の彫刻作品の特徴である神秘性が明瞭に現われてきている。ハバククと天使では物語の性格上、神秘的雰囲気はそれほどでもないが、神に祈るダニエルはほとんど法悦の状態といってよい神秘的献身を感じさせる。つまり、ダニエルにまとわりつく衣が暗示する神秘的な力によって、ダニエルの肉体は重力から自由になって上昇するように感じられるのだ。そしてその無重力的な、脱力状態の肉体によって、ダニエルの法悦と天に向かう祈りとが表現されているのである。重力を感じさせない彫刻、言葉で言うのはたやすいが、それを実際に大理石で達成するのは至難の業であろう。それは、ベルニーニ以前には探求されたことのない大理石彫刻の可能性だったのではなかろうか。しかもこの作品において、《聖女テレサの法悦》のように複雑な衣の表現によるのではなく、ただポーズと肉体と一片の布だけで、それが達成されているのは驚くべきことだと思う。

Museo Cristiano Sala dei Papiri / Musei Vaticani
Museum der Bildenden Kunste Leipzig / ドイツ

そしてこれに加えて、この彫刻が古代の作品にインスピレーションを得て制作されたという事実を知る時、我々の驚きは倍加される。この作品に関しては一連の準備デッサンが残っているので、その制作過程をさかのぽることができる。
それらを見ると、ベルニーニはこの彫刻を構想するに当たって、まずラオコーン群像中の《父》のトルソのデッサンから出発したことが分かる。そして次第にそれを彼の考える表現に適合させていったのである。そうした制作過程を経て、しぱしぱ「反古典的」、あるいは「ゴシック的」とまでいわれる、ダニエルの引き伸ぱされた肉体表現が生まれたのである。再三述べたように、古代との関係、すなわち古典主義の間題はイタリア美術史の根本間題の一つである。我々にとって、ベルニーニはバロックの創造者であり、古典主義的潮流とは対極にある美術家だが、ベルニーニ自身は古代とアンニバレ・カラッチの正統な後継者を自認していた。後年パリのアカデミーで美術家の教育について講演した時にも、彼は古代の作品から学ぶことの重要性を強調し、ベルローリの古典主義的理論をほとんどそのまま繰り返している。とはいえ彼は、他のバロックの美術家たちと同じように美術理論そのものにはあまり関心を示さず、その制作も理論の実践という性格は希薄であった。彼の制作は理性を基にしながらも、本能的・感覚的に行われたのである。こうしたベルニーニとプサンをはじめとする17世紀の古典主義的傾向の美術家たちとの違いは、ウイットコウアーが論じたとおり、古代美術のモデルの用い方によく現われている。つまりプサンらは、禁欲的な道徳に価値をおき、古代の造形によって自らの想像力の過剰を抑制し、そうすることで形態を浄化して、より高貴な表現に達しようとしたといえる。これに対してベルニーニは、逆に出発点に古代の造形を用い、幻視的な想像力を奔放に働かせてそれを変形し、彼の宗教感情に適合するような形態表現に近づけていったのである。イタリアにおいて古代は「第二の自然」であった。自然に対する美術家の態度が多様であったのと同時に、古代に対しても様々な対応が可能だったのである。

ペーター・フェルポルテン(ピエトロ・デッラ・ポルタ、ピエトロまたはペーター・ラ・ポルタ、ピエトロまたはペーター・ヴァルポルテルとしても知られる)Peter Verpoorten (also known as Pietro Della Porta, Pietro or Peter La Porta, and Pietro or Peter Varportel)(17世紀初頭 – 1659年)は、フランドルの彫刻家でした。彼はブロンズのスペシャリストであり、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの協力者でした。1658年に彼は後者の助手に任命された。

ベルニーニとの共同作品で最もよく知られているのは、サンタ マリア デル ポポロ大聖堂のキージ礼拝堂の永遠のランプです。この青銅製の聖域ランプ(チェーンにぶら下がった金色の王冠を形成し、キージの八芒星で装飾され、3 つの空飛ぶケルビムで支えられている)は、フェルポールテンがベルニーニのためにモデル化したものである。

9.キージ家の家族の一人のレリーフ

レリーフ

昔の記述では、キージ礼拝堂の左奥に奥の部屋があり、そこに礼拝堂のとは別な三角錐があった。
今、不明。