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外観主祭壇身廊祭壇記念碑内部説明図館内図 彫刻彫刻 ブロンズ祭壇彫刻胸像彫刻:名前 M-ウルバヌス8-1テラコッタレリーフ噴水 オルガン部屋飾り家紋ランプ燭台十字架メダル デッサン・スケッチカリカチュアカタファルコイベント 油絵:肖像画  :ベルニーニの肖像油絵:風景画絵画 神話 版画:風景版画:庭園版画:噴水版画:建築版画:建築設計版画:建築装飾版画:室内装飾版画:祭壇彫刻 版画:デザイン版画:彫刻版画:肖像画版画:物語 アゴスティーノ・ヴァリエアンドロメダアンブローズアレクサンデル7世イノケンティウス10世ウルバヌス8世カテリーナ・ロスピリオージカミラ・バルベリーニカルロ・アントニオ枢機卿カルロ・バルベリーニクリスティーナ女王クレメンス10世グレゴリウスグレゴリウス15世コンスタンティヌスサトゥルヌスサルヴァトーレ・ムンディサンタゴスティーノシピオーネ・ボルゲーゼスールディス枢機卿聖アグネス聖イシュトヴァーン聖セバスティアーノ聖ヒエロニムス聖ビビアナ聖フィリップ・ネリ聖ロンギヌスダビデチャールズ1世テレサトリトントーマス・ベーカーネプチューンパウルス5世ピエトロ・ヴァリエブラッチャ...
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サン・クリソゴノ・イン・トラステヴェレのポリ礼拝堂(守護天使または聖秘跡)のベルニーニと協力者たち。歴史的および芸術的な詳細

の日本語訳を、念のため残す。 リヴィオ・ペスティッリ2021 年 4 月 28 日DOI: 10.11588/xxi.2021.1.79016要約: サン・クリソゴノ・イン・トラステヴェレのポリ礼拝堂(別名デッランジェロ・クストーデまたはデル・サンティシモ・サクラメント)のベルニーニと協力者。歴史的および芸術的説明トラステヴェレのサン・クリソゴノ大聖堂にあるポーリ礼拝堂は、ベルニーニが最後の建築プロジェクトでも協力者を活用した方法の一例を表しています。文学資料とアーカイブ資料の再解釈から始まり、これは以前、後陣の反対側にあるマドンナ・デル・カルミネ礼拝堂(コルヌ書簡)との間の「アイデンティティの入れ替わり」事件を引き起こしました(コルヌ・エヴァンジェリ))、このエッセイでは、ベルニーニがポーリ礼拝堂のために編纂した図像的意味を考慮し、第二次世界大戦後行われた修復によって元の側面がどのように変化したかを調査します。最後に、2018年7月に現在の祭壇画が削除されたことが記録されており、この記事は、現在の19世紀の絵画の背後にまだあると信じられていた守護天使を描いたルドヴィコ・ジミニャーニの...
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スパーダの家にあるウルバヌス 8 世バルベリーニのベルニーニ作の胸像。

上記内容、webがなくなりそうな気配もあるので、日本語訳を記載しておく。この記事に添付されている写真は、胸像の写真のみ。 M. ルクレツィア NEAR 著 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598年 - ローマ、1680年) ウルバヌス 8 世バルベリーニの胸像(フィレンツェ、1568 ~ ローマ、1644) 茶色がかった緑青のある白い大理石、94 x 71 x 40 cm、inv。いいえ。379 調査番号 379 ガレリア デッラ メリディアーナ、スパーダ宮殿のメインフロア この胸像はベルナルディーノ・スパーダ枢機卿(1594~1661年)のもので、彼は他の6つの彫刻とともに、いわゆる「青い天井の部屋」 (現在の博物館の最初の部屋)に保管しており、そのうち5つは古代のもの、1つは現代のものであると法王によって保管されていた。彫刻家ジュリアーノ・フィネッリ。彼の父親である教皇の財務官パオロ・スパーダ(1541-1631)を描いた作品。これは、1661 年の彼の世襲財産の目録にどのように表示されるかであり、特に参照することなく単に「都市」 (1) として記述されています。同じ部屋...
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用語解説

Cattedraleカテドラーレとは、ローマ・カトリックを、いくつかの教区に分けて、その教区を治める教区長(司教か大司教)が自分の教区内にいる信徒を教導し、司式する為の着座椅子を”司教座(カテドラ)”と言い、司教座が置かれている教会を司教座聖堂、つまりカテドラーレというようです。司教区内の最高の権威を持つ教会を指す。 Duomoドゥオモは、”町のいちばん重要な教会”という呼び名のようです。通常は司教座聖堂であることが多いようです。 Chiesaキエーザは、キリスト教の総称的使い方もするようです。組織としてみた場合も、信者組織、信徒一同という意味でも”キエーザ”を用いるようです。ギリシャ正教や、ユダヤ教の教会にも”キエーザ”を用いるようです。ただ、固有名詞に”キエーザ”を用いる場合、”キエーザ・ディ・何とか”という教会の名前であると、小教区の、司祭管区の、という意味になり、比較的小さい規模の教会のことを指すことが多いようです。 Basilica 聖堂はその地位を強調するために、特定のカトリック教会の建物に教皇庁によって与えられた名誉称号です。大聖堂Cattedraleと通常の教会Chie...
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4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi 参考資料

4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi1648-51バロック時代の君侯が、ベルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス10世も4年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、15世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッッォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自家の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッッォとサン・タニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は70代半ばの老人であり、まもなくボルロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。噴水はすでにグレゴリウス13世の時代に広場の両端に2基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行...
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「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル

Modello della Monumento di LouisⅩⅣ1671年。ルイ14世に命じられ制作するが実際の像はパリに運ばれて、改変されヴェルサイユ宮殿にある。1667年にルーヴル宮のプランが放棄されたのは、このような一連の不辛な出来事の前兆だったように思われる。この不本意な知らせにベルニーニがどのように反応したかは伝えられていないが、彼の無力感を助長したことは間違いあるまい。だが計画が中止されても、彼はルイ14世から6000リーヴルという決して少額とはいえない年金(1961年の論文でウィットコウアーは、ほぽ同額のドルに匹敵すると述べている)を受けていた。そのため、この年金にふさわしい仕車を要求するコルベールは、フランス・アカデミーの世話をするだけでなく、ルイ14世の騎馬像を制作するようベルニーニに矢の如く催促してきたのである。しかし、ベルニーニが構想をねった末に粘上のモデルを作り、その後大理石をとり寄せて制作にかかったのは、ようやく1671年になってからであった。この作品は2年後の1673年にはほぽ完成したが、完全に仕上がったのは77年のことであり、また完成してもすぐにはフラ...
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へロマの参考文献

L’opera è frutto della composizione di un Ermafrodito di provenienza archeologica con un materasso eseguito nel 1774 dallo scultore Andrea Bergondi. Il giovane corpo è dolcemente disteso sul fianco destro, con il bacino lievemente sollevato e la gamba sinistra flessa con piede alzato. Le braccia sono piegate sotto il capo, che vi si adagia delicatamente. La figura è nuda, coperta solo parzialmente dalla stoffa su cui giace, che avvolge i polpacci.Il busto appare in un movimento di torsione, di d...
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シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像

教皇ウルバヌス8世の命を受け、1632年に制作する。シピオーネ・ボルゲーゼは1633年10月8日に世を去るが、その前年にベルニーニは教皇の命を受けて彼の肖像を制作した。おそらく、教皇は教皇選挙の折に便宜を計ってくれた枢機卿への好意から、肖像の制作を命じたのであろう。ベルニーニがこれを喜んで引き受けたことは想像にかたくない。むしろ彼自身がこの計画を提案して、教皇の許可を求めたのであったかもしれない。そう思わせるほど、このシピオーネ・ボルゲーゼの肖像は生き生きしており、ベルニーニの親愛の情があふれている。シピオーネ・ボルゲーゼは座の中心にあって、何かゆっくりとした口調で話しているといった風だ。目も鼻も口も、それぞれが個性的で、それぞれが生きている。また衣装も光を巧みにもてあそび、全体の印象を暖かで、しかも格調のあるものにしている。シピオーネ・ボルゲーゼはこの時54,55歳だったが、肖像はそれよりも幾分若々しく、多少美化されていろように見える。肖像に若干の美化が必要なことは、ベルニーニ自身も認めている。彼は後にパリで「肖像の秘訣は美点をできるだけ利用して、全体に偉大さの印象を与えることである...
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トロイア

かくいいおわるや既にもう、はげしさ増しつつ都じゅう、  狂う火の音耳に人り、熱渦を巻いて身にせまる。  「ですから父上、さあ早く、わたしの肩に乗られるよう。  私は背負ってさしあげる。なに、この重さは大丈夫。  事のなり行きどうなろと、危険も一つで共通で、  救いもふたりは一緒です。わたしは幼いユールス(アスカニウス)を、  連れてゆきます、そのあとを、ずうっと妻は来るように。  …父上あなたは聖物と、  家郷の守神を持たれたい。わたしは何分あのように、  ひどく戦い人を斬り、けがれた体で神聖な、  そういうものにさわるのは、流れる川で身すすぎを、すませるまではできません」。        (泉井訳、第1巻705-720) すでにバルディヌッチが指摘しているように、この作品のアエネアスの顔などには、父ピエトロの作品を思わせるところがある。こうした様式的特徴に加えて、ベルニーニがしぱしぱ父の仕事を手伝ったと考えられること(たとえぱ、サン・タンドレア・デルラ・ヴァルレ内バルベリー二礼拝堂の童子など)、またこの作品をピエトロの作と述べている資料もあることなどから、この彫刻はピエトロ作とも、父...
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プロセルピーナの略奪

シピオーネ・ボルゲーゼの注文による本格的彫刻作品の第一作は《アエネアス》だったが、ベルニーニはこれに続けて三つの作品を制作した。ボルゲーゼ美術館の至宝《プロセルピナの略奪》、《ダヴィデ》、そして《アポロとダフネ》がそれである。三作の最初は《プロセルピナの略奪》で、《ネプテューンとトリトン》に続いて1621年から22年にかけて制作されたと考えられる。キューピットに愛の矢を射られたプルトがプロセルピナを誘拐するという主題は、オヴィディウスの『転身物語』に基づいている。さて、プロセルピナは、この森のなかで遊びたわむれ、すみれや真白 にかがやく百合の花を摘んで、乙女らしく嬉々として籠につめたり、ふと ころに人れたリしては、友だちのだれよりもたくさん摘みとろうと夢中にな っていました。それをたまたまデイス(プルト)がみとめ、恋ごころをお ぽえ、たちまちかの女を奪いさらったのです。しかも、ディスの恋ときた ら、まったく電光石火のような素早さでした。プロセルピナは、おどろき おそれて、かなしげな声で母や遊び友だちに助けをもとめ、とりわけ母 の名をいくども呼びました。……(田中前田訳、第5巻391-3...
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アポロとダフネ

《プロセルピナの略奪》に続いて、1622年8月にベルニーニは《アポロとダフネ》の制作を姶め、翌年の2月にはまだ制作を続けていたことが知られている。だが同じ年の夏には、もう一つの作品《ダヴィデ》に着手し、翌年の春までにこれを完成する。その後再び《アポロとダフネ》にかかるが、完全に什事を終えたのはようやく1625年になってからであった。しかし《ダヴィデ》を始めた時には、この作品はすでにかなり出来上がっていたと想像される。そこで《アポロとダフネ》を先に考察しようと思う。この作品もオヴィディウスの『転身物語』に基づいている。恋心を生む黄金の矢を射られたアポロが、恋を嫌う鉛の矢を受けたダフネを追い求めるという、有名な月桂樹の転身物語の一節である。それとおなじように、神は希望にかられて、乙女は恐怖におびえて、ともに疾駆する。しかし、恋の翼にはこぱれる追手の方が脚が早く、相手にやすむひまもあたえず、すぐ背後に追いすがり、その息は乙女の頸になびく髪にふりかかる。乙女は、もう力の限界にきて、まっ蒼になり、ながいあいだひたすら走りつづけた緊張のために精根もつきはて、ペネウスの流れをみとめるなり、こうさけん...
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ダヴィデ

「ダヴィデ」 Davideシピオーネ・ボルゲーゼの注文。1623年8月から24年にかけて一気に仕上げた。《アポロとダフネ》の制作を一時中断して、ベルニーニが1623年の8月から、《ダヴィデ》を一気に仕上げたことはすでに述べた。「この作品(《ダヴィデ》)において、彼は彼白身をもはるかに凌駕し、わずか7カ月の間にこれを完成した。というのは、このように若いうちから、彼が後によく語ったように、彼は大理石をむさぼり、決して無駄なのみを使わなかったからである」とバルディヌッチは記している。このバルディヌッチの言葉は少しも誇張とは響くまい。なぜなら、ベルニーニの仕事の量、その早さ、そして作品に見られる集中感は、彼が強靱な意志と体力の持主であり、そしていかに並外れた集中力に恵まれていたかを痛感させるからだ。バルデイヌッチが他の箇所で伝えるところによれぱ、建築の仕事がない限り、彼は7時間も統けて大理石彫刻にとり組んだ。これには若い助手もついてゆけず、ある者が仕事を止めさせようとしたことがあった。するとベルニーニは、「このままにしておいてくれ。私は虜になっているのだから」と答えたという。彼はいつも、あたか...
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ローマ・ミステリーガイド 市口桂子

作者の名はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。わずか二十五歳でこの天蓋の製作を任され、以後法王の芸術家としてサン・ピエトロ大聖堂の内装から、284本の柱からなる回廊をもった聖堂前の広場の製作まで指捧をとったのが彼である。また有名なトレビの泉も彼の作品だ。古代ローマの遺跡群とともに、ローマの街に特異な表情を与えている、豪華さと人を驚かすエンターテインメント性がきわだつバロック芸術の生みの親だ。さて、例の出産シーンにかんしての伝説や仮定はいくつかある。ひとつめの伝説は、当時妊娠していた法王ウルバーノ八世の姪が寄進したというもの。無事出産を終えることができたら、ベルニーニがその吉事を台座に刻むことになっていたというものだ。しかし、出産の最後の瞬間までつづくあの苦しそうな表情は、吉事の記念としてどうかとも思うし、なにより性器をリアルに措かれることを名家の姫が承知したとは思えない。宗教的な意味合いからの仮説もある。新約聖書のジョバンニ(ヨハネ) の福音書にある、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることばできない」 や、「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時がきたからである。しかし子どもが生...
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激愛ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂

わたしたちはサン・ピエトロ大聖堂(Basillica di San Pietro) の中央身廊にいる。行きかう人びとの頭上のかなたに鳥居のようにそびえ立つ天蓋(パルダッキーノ=Baldacchino)が正面に見えるだろう。四本の柱に支えられた傘状のそれの下にはローマ法王がミサをとりしきる中央祭壇があり、そのさらに下方にはキリスト十二使徒のひとり、ローマカトリック教会の布石ともいえる聖ピエトロの遺骸をおさめた地下聖堂が位置する。月桂樹のツタが絡まった十一メートルのねじり棒のごとき四本の柱も、その先端に柔らかくかけられた法王のシンボル入りの垂れ幕も、その上に飛びかう天使もすべて黒緑色のブロンズ製だ。ところどころにほどこされた金細工が、地の暗色とあいまってより光を放つ。天蓋全体の高さは二十メートルはど、六、七階の建物の高さに相当する。そしてその上方にはミケランジェロのつくった高さ132.5メートルの丸天井がおおいかぶさっている。近づけば近づくほど人びとの目線は上へ上へと上昇していくことだろう。さもなければ天蓋前方に大きく口を開けた聖人の地下聖堂への入口に気づき、一気に地下へともぐってしまう。...