4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi 参考資料

4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi
1648-51
バロック時代の君侯が、ベルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス10世も4年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。
ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、15世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッッォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自家の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッッォとサン・タニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は70代半ばの老人であり、まもなくボルロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。
これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。噴水はすでにグレゴリウス13世の時代に広場の両端に2基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行に移すには、まず多量の水が必要であり、そのためにはトレヴィの泉から水を引いてこなければならなかった。この仕事は、本来ならぱ「ナヴォナ広場の水道・噴水監督官」および「アックワ・ヴェルジネの建築家」の二つの称号をもつベルニーニに任されるべきであった。だがここでもベルニーニに代ってボルロミーニが登用され、彼は1644年から3年かかってこの工事を完成させている。
一方ずっと以前から、アッピア旧街道のマクセンテイウス帝の円形競技場跡にオベリスクの断片があるのが知られていた。そこで、このオベリスクを広場に運んで噴水の装飾に用いてはどうかということになり、その噴水装飾のプランを決めるコンクールが開かれたが、今度もやはりボッロミーニの案が選ばれた。ベルニーニはこのコンクールに招待すらされなかったのである。
しかしベルニーニにも味方がいた。伝記作者の伝えるところによれぱ、ルドヴィーシ家の当主で、パンフィーリ家の女宰相オリンピアのむすめ婿であった旧友ニコロ・ルドヴィーシが、ベルニーニにも噴水のモデルを作るよう勧め、オリンピアにとりなしたのである(ある資料によれぱ、ベルニーニはオリンピアの気を惹くよう精巧な銀のモデルを作ったという)。オリンピアもこのモデルがいたく気に入ったので、ニコロ・ルドヴィーシはそれを教皇が食事の後に通る部屋に置いておいた。聖母の被昇天祭の日(8月15日)に祝祭行列を終えて食事に寄った教皇は、食事の後でモデルを見つけ、半時間もうっとりと眺めて、このデザインはベルニーニより他に考えられない。そしてこれはプリンチペ・ルドヴィーシのたくらみにちがいない。こうなっては、それを望まない者もいるようだが、ベルニーニを用いなけれぱなるまい。彼のプランを役立てまいと望む者は、これを見てはならないからた」と言った。そしてその日のうちにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の制作を命じたのである。こうしてボルロミーニは再び苦杯をなめ、ベルニーニはようやく第一線に復帰することとなった。

ベルニーニがナヴォナ広場に制作した《四つの河の泉》は、二つの構想から成っている。一つは、オベリスクの台座を中が空洞になった岩山にするというアイディアであり、もう一つは、それを四大河川の寓意像で飾るという「着想」である。マクセンティウス帝の円形競技場跡で見つかったオベリスクは、6つの断片に分かれていたので、つないで修復する必要があったが、そのかわりそれを立てるのには他のオベリスクほどの困難はなかったと思われる。それでもこの噴水の制作が大へんな作業だったことは、当時の資料が「その非常な困難と苦労とは、実際の作業を見た者でなければ分からないと思う」と伝えていることからも想像できる。しかし不思議なことに、現実にこの噴水を前にしてこうした困難を感じることはほとんどないといってよい。我々はむしろべルニーニがやすやすとこれを成したように思うであろう。それは、実際には非常に重いにもかかわらず、オベリスクの重さがほとんど感じられないことに起因している。そしてこれは、オベリスクという幾何学的で無機的な物体の台座に自然のままの岩山を導入し、しかもその岩山の中を空洞にするという、いかにもベルニーニらしい卓抜なアイディアの賜物である。「魔術師」ベルニーニならではのすぱらしい「舞台装置」だといえよう。
これに対して、四大河川の寓意像を噴水の装飾に用いるというアイディアは、ボルロミーニがすでに考えていたともいわれる。けれども1つだけ現存するボルロミーニのデッサンを見ると、彼が実際に立てたプランは、オベリスクの台座に簡単な浮彫の装飾を施して流出口から水を流出させるだけという、全く簡素なものだったことが分かる。そもそもこうした舞台美術的な感覚を必要とする仕事で、ベルニーニに太刀打ちできる者はない。ベルニーニはまずオベリスクの台座を岩山にし、噴水の四隅に4つの大陸を象徴する四大河川の寓意像を、ミケランジェロを思わせるダイナミックな肉体をもって表わした。このうちドナウはオベリスクを見上げ、ナイルは目をおおってその水源が神秘なことを示し、ガンジスは水の豊かさを表わすオールをもち、モール人のラプラタはかたわらにコインを散らしてその金銀の豊かさを示している。
これらの主役に加えて、ベルニーニはシュロ(ナィル)やサボテン(ラプラタ)などの植物と、四大河川を表わす動物として馬(ドナウ)、ライオン(ナィル)、蛇(がンジス)、アルマディロ(ラプラタ)を添えている。馬は洞窟から顔をのぞかせ、ライオンは水を飲もうとかがみ込み、蛇は岩をはい、アルマディロは岩陰からひょうきんな顔をのぞかせて、見る者を楽しませてくれる。さらにベルニーニは、水を岩の間から噴き出させることによって、その戯れに変化をつけている。
こうして出来上がった噴水は、全体がまるで生き物のようであり、自然とフアンタジーとの絶妙の融合体だということができる。その意昧でこの噴水は、ベルニーニの作品の中でも最も催物的な作品であり、彫刻作品というよりむしろ木や紙やストウッコで作られる祝祭の装飾装置に近いといえよう。祝祭の装飾はその時限りのものだったが、彫刻よりも一層自由なファンタジーの表現が可能であるため、美術家にとってまたとない実験の場となった。ベルニーニの《四つの河の泉》はそうした実験から生まれたものであり、失われた祝祭の都市ローマをしのばせる最高の遺品だといってよいであろう。

ところでこの噴水のプランにおいて、ボルロミーニがベルニーニに太刀打ちできなかったことがもう一つある。それは17世紀の権力者や宗教者の心を捉える「着想」でもって作品を意昧づけるという才能である。この点でもベルニーニに並ぶ者はない。そもそもプロパガンダの具としての美術というバロック的概念は、ハスケルが指摘するとおり、ウルバヌス8世とベルニーニによって打ち立てられたといってよいからだ。その意味でベルニーニは優れた宮廷人だったわけである。だから最初のうち彼を冷遇していたイノケンテイウス10世も、胸襟を開いてからは、「騎士ベルニーニは偉大な君侯と交わるべく生まれた男だ」と常々口にしたと伝えられる。このように宮廷人としての感覚にたけていたベルニーニにとって、教皇やパンフィーリ家の人々が何を求めているかは自明のことだったはずである。その彼らを捉えたベルニーニの「着想」とは、四つの河、つまり四つの大陸に君臨する教会とパンフィーリ家を称讃するために、オベリスの頂にオリーヴの小枝を口にした鳩をすえるというものであった。周知のとおり鳩は聖霊の象徴だが、同時にそれはパンフィーリ家の紋章でもあったからである。シクストウス5世以来、オベリスクはしばしば広場の装飾に用いられてきたが、その頂にはいつも十字架がすえられ、オベリスク、すなわち異教に対する教会の勝利が表わされた。その伝統をベルニーニは破ったのである。

この噴水は着工から3年ほどで完成されたが、実際の制作は4体の寓意像をはじめとして、ほとんどすべて弟子たちの手で行われた。けれどもバルディヌッチによれぱ、馬とライオンとシュロの木はベルニーニ自身が制作したという。それを裏づける資料はないが、それらは確かに生き生きとした作品である。また伝記作者は、この噴水に関して次のようなエピソードを伝えている。この噴水は1651年6月14日に除幕されたが、その少し前に教皇が50人ほどの供をつれて見に寄ったことがあった。教皇は半時間ほど噴水を見て楽しんだが、やはり水がないのをもの足りなく思い、水はいつ出るのか、とベルニーニに尋ねる。するとベルニーニは、出来るだけ早くしたいと思います、と答えた。やむなく教皇は祝福を与えて立ち去るが、建物1つも進まないうちに水音が聞こえた。ベルニーニが合図して水門を開かせたのである。振り返る一行の目に映ったのは、「皆をうっとりとさせるスペクタクルだった」。教皇は「予期せぬ喜びで寿命が10年延びた」と手を打って喜び、すぐさまオリンピアに使いをやって100ドブレとり寄せ、それを噴水工事に当たった下級の職人たちに与えた、というのである。演劇とスペクタクルの17世紀に生き、芸術と現実との境を取り除こうとした、ベルニーニの面目躍如たるエピソードではないか!
さて、こうして完成した《四つの河の泉》は非常な称讃を集め、たちまちローマの名所の1つになった。フランチェスコ・アルビッッィは当時アーヘンにいたファビオ・キジ(後のアレクサンデル7世)に、「まったくそれは世の奇跡だ…ベルニーニは1つは宗教的、他は世俗的な記憶さるべき2つの作品を作った。前者はサン・ピェトロの聖者の墓をおおうバルダッキーノを支える柱であり、世俗の作品とはこの噴水である。それは古代の最も美しい建造物をも凌駕している」と書き送っている。また今日では信じ難いことだが、1年ほどの間に、この噴水を称讃する書物がつづけて8冊も出版された。けれどもベルニーニ自身は、晩年ここを通り過ぎる時に馬車のとばりを閉め、「こんな貧困な仕事をして何と恥ずべきことか」と洩らしたと伝えられる。
しかし、この噴水を見物するためにナヴォナ広場に集まったローマの市民たちは、その出来映えに感嘆するとともに、それをうらめしく眺めたことであろう。なぜなら、この噴水建設のために教皇は新たな税金を課したからである。こうしたことを人々は嘆いた。「小麦の価格は日に日に上がっているから……」とジルリは記し、ナヴォナ広場に運ぱれたオベリスクの石片には次のような落首が貼られていたと伝えている。「我々はオベリスクや噴水などは欲しない。我々はパンが欲しい。パン、パン、パン」。こうしたことからも推察できるように、ローマの社会・経済状況は諸要因が重なってますます悪化していたのである。
ところで、こうして再起したベルニーニを、イノケンティウス10世は毎週のように招いて、数時間歓談するのを常とした、と伝記作者は伝えている。教皇は「四つの河の泉」に続いて、ナヴォナ広場のいわゆる「モーロの泉」の改造やサンタ・フランチェスカ・ロマーナの修復、そして実現は見なかったが、コンスタンティヌス帝の像の制作などをベルニーニに依頼した。     BERNINI p115

ウィルゴ水道から水を引き、トレヴィの泉から給水されている「4大河の泉」は、1651年ベルニーニの作である。イノケンティウス10世の希望は、全体の統一感を損ねることなく、横長の空間に中心となる建造物を与えることであった。そこで、チルコ・マッシモからオベリスクが運ばれた。そこにはヒエログラフでドミティアヌス帝が81年に権力の座に就いたという公的記録が刻まれている。ベルニーニは、オベリスクの上に十字架を立て、全世界を象徴する4大河像が座る岩の上にそびえ立たせた。これはキリスト教の勝利を意味する。オベリスクはまるで宙に浮かんでいるように見え、大変印象深い。沸き上がるような躍動感はベルニーニ芸術の本領である。岩を背にする4大河像は、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川及びナイル川を表す。4大河の間には、洞窟が口を開き、ライオンやカバなどが見え隠れしている。噴水にはオリーブの小枝をくわえた鳩のデザインの教皇の紋章があしらわれている。 人物像はベルニーニの設計により助手たちが制作。オベリスクはローマ時代の模刻である。この噴水の建造費はパンを含む様々な日用品への課税によって調達されたので、当然広汎な抗議を招いた。