激愛ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂

わたしたちはサン・ピエトロ大聖堂(Basillica di San Pietro) の中央身廊にいる。行きかう人びとの頭上のかなたに鳥居のようにそびえ立つ天蓋(パルダッキーノ=Baldacchino)が正面に見えるだろう。四本の柱に支えられた傘状のそれの下にはローマ法王がミサをとりしきる中央祭壇があり、そのさらに下方にはキリスト十二使徒のひとり、ローマカトリック教会の布石ともいえる聖ピエトロの遺骸をおさめた地下聖堂が位置する。月桂樹のツタが絡まった十一メートルのねじり棒のごとき四本の柱も、その先端に柔らかくかけられた法王のシンボル入りの垂れ幕も、その上に飛びかう天使もすべて黒緑色のブロンズ製だ。
ところどころにほどこされた金細工が、地の暗色とあいまってより光を放つ。天蓋全体の高さは二十メートルはど、六、七階の建物の高さに相当する。そしてその上方にはミケランジェロのつくった高さ132.5メートルの丸天井がおおいかぶさっている。近づけば近づくほど人びとの目線は上へ上へと上昇していくことだろう。さもなければ天蓋前方に大きく口を開けた聖人の地下聖堂への入口に気づき、一気に地下へともぐってしまう。ゆえに、その中間に位置する、ブロンズの柱を支える四つの大理石の台座に、あえて多大な注意を払う人は多くはない。もしいたとすればその人は、その台座に彫りこまれた謎を知っていることになる。

台座 台座の形は四角柱で、おもに白とだいだい色の二色の大理石からなっている。各台座の外側二面には家紋の浮き彫りがなされている。上部に二匹、下部に一匹、合計三匹の蜂をあしらった盾だ。この天蓋を1624年に発注した法王ウルバーノ八世のものである。それ以外に装飾として盾の上に女性の顔があり、さらに彼女をおしつぶすかのように天国の扉をあける重々しいふたつの鍵が交差している。そしてさらにその上に丸みをおびたコーン形の法王の冠がのっている。いっぽう盾の下部には、魔物を思わせる恐ろしげな顔がついている。四つの台座に彫られた紋章は合計八つ。この八つの紋章が一連の意味をなすためには、天蓋に向かって左前方の紋章から時計まわりに、天蓋の周囲をまわりながら見ていく必要がある。注目するのはとくに三点。盾につけられた女性と魔物の表情、そして盾部のふくらみの変化だ。
ひとつめの紋章。女性の顔はわずかに眉をひそめうつむきかげん。ほのかにほはえんでいるようにも見えるがどこか哀しそうでもある。いっぽう魔物はといえば鼻をもたげ、下唇を下方に大きく開き、上機嫌な酔っぱらいのように笑っている。つぎに盾部だが、前から見ると全体的にこんもりとしているだけに見えるが、真横から見てみると意外な形が浮かび上がる。蜂二匹のついた上部が蜂一匹のついた下部に比べ、明らかに山形に盛り上がっているのだ。その上方にある女性の横顔から目線を下げていくと、盾のふくらみがじっに女性の身体のラインを描いていることに気づくであろう。上部に並んだ蜂二匹はふたつの乳房を、下部の一匹はへその位置に相当する。となると、位置関係から考えて、はたしてこの魔物はいったいなにをあらわすことになるのか。
ふたつめに進もう。彼女はさらに眉をひそめ、なにか言いたいことがあるかのように口を開いている。いっぽう魔物の下唇は消え、持ち上がった鼻の中央にあいた穴が口とつながり、顔のまんなかにみぞが開いたようになっている。そして盾はというと、下部、いやその腹部が乳房の高さと等しいほどに盛り上がってきているではないか。
さて三つめである。微妙な違いではあるが、いまや腹部は乳房よりも突き出ている。いっぽう彼女の表情といえば見るにたえない。眉の間には深い苦悩のしわが刻みこまれ、無言の絶叫をあげているのだ。こころなしか一気に老けこんだようにも見えるのは、ロが大きくあけられ、頼の筋肉がひきつったせいであらわれた深いしわのせいであろう。魔物の頼も同じようにひきつっている。みぞ状に変化した彼の口はその中央部が引き締められ、下のほうが広くなっている。そしてここにきて気づくことがひとつ。彼の頬がまるで骨盤のように見えることである。
つぎへ進もう。魔物のロはさらに縦に長く伸び、まるで脊髄の一部のようにも見える。彼女は疲れ切った顔ではあるが、もはや叫んではいない。ただ目の下がげっそりとくぼんでいる。腹部と乳房の高さは同じくらいに戻ってきたようであるが、微妙な変化で見てとりにくい。
五つめの彼女はふし目がちではあるが、すこしばかりほほえんでいるようにも見える。いっぽう魔物の変化が大きい。大きく伸びていた口(みぞ)が閉まりはじめ、鼻部が再度あらわれている。頬と思わしきふくらみも戻っているが奇妙に縦長のかたちだ。言い切っていいだろう。これは女性の性器にあまりに似ている。
六つめ、腹部も胸部もふくらみをほとんどなくしている。彼女はやっと顔を上げるが、やはりまだ苦しそうである。いっぽう魔物の細く吊り上がった目はきつく閉じられ、女性性器に酷似していた彼の頬の盛り上がりは消え、口は顔の下のほうに遠慮がちに小さく閉じられている。
七つめの浮き彫りのなかで、彼女はようやっと明らかにわたしたちに顔を向ける。髪はざんばらに乱れ、眉を苦しげに寄せてはいるがまなざしは強い。小さく開けられた口はやはりここでもなにかを語りたがっているようだ。呆然としているようにも見えるし、なにかをあきらめざるをえない悔しさを押し殺している表情にも見える。哀しい顔だ。彼女の身体、盾からは、女性特有の丸みは消え、味気のないただの盾となりつつある。いっぽう魔物はまぶたを閉じ、深いしわの刻みこまれ
た静かな表情をしている。
最後の台座に進もう。その変化は劇的だ。まず魔物の顔ほすっかり老人の顔となり、女性性器の大陰唇に酷似していた頬のふくらみは、いまや口の両側に伸びる長いヒゲに変化してしまった。古い森に住む物知りな魔法使いといった感じで、父性すらかもしだしている。いっぽう盾部はといえばすっかりふくらみをなくし、いまやほぼ平坦といっていいほどの浅いカーブを描いているばかりである。そして「彼女」は、もういない。彼女のいた場所にはかわりに小さな丸っこい顔がのぞいている。リンゴの頬。くるくるの巻き毛。下を向いてはいるがはっきりとわかる。それはほほえんでいる子どもの顔である。
苦痛に叫ぶ女性の顔。大きく開いては閉じていく生殖器。そして最後にあらわれる子どもの顔。この一連の浮き彫りが出産シーンをあらわしていることはまずまちがいない。ただ法王がミサをとりおこなう場所にもかかわらず、あまりにも女性性器の描写が細やかだったり、切るように痛々しい女性の表情がちりばめられているものだから、この浮き彫りの意味するところをめぐり、数世紀にわたって人びとの想像力に火をつけるところとなったのである。