「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル


Modello della Monumento di LouisⅩⅣ
1671年。ルイ14世に命じられ制作するが実際の像はパリに運ばれて、改変されヴェルサイユ宮殿にある。
1667年にルーヴル宮のプランが放棄されたのは、このような一連の不辛な出来事の前兆だったように思われる。この不本意な知らせにベルニーニがどのように反応したかは伝えられていないが、彼の無力感を助長したことは間違いあるまい。だが計画が中止されても、彼はルイ14世から6000リーヴルという決して少額とはいえない年金(1961年の論文でウィットコウアーは、ほぽ同額のドルに匹敵すると述べている)を受けていた。そのため、この年金にふさわしい仕車を要求するコルベールは、フランス・アカデミーの世話をするだけでなく、ルイ14世の騎馬像を制作するようベルニーニに矢の如く催促してきたのである。しかし、ベルニーニが構想をねった末に粘上のモデルを作り、その後大理石をとり寄せて制作にかかったのは、ようやく1671年になってからであった。
この作品は2年後の1673年にはほぽ完成したが、完全に仕上がったのは77年のことであり、また完成してもすぐにはフランスに運ばれなかった。というのは、一つにはこの像を中心として今日いうスペイン階段(現在ある階段はフランチェスコ・デ・サンクティスのプランに基づいて1723年から28年にかけて作られた)を整備しようというプランが検討されていたためであり、もう一つには、パリの反ベルニーニ派がこの騎馬像に代ってルブランの対案を採用するようコルベールを説得するのに成功したためたと思われる。このルブランが考案したルイ14世のモニュメントは、彫刻家ジラルドンの手で制作されることになったが、まさに制作が開始されようとした時にコルベールが亡くなり、そのために陽の目を見ずに終ってしまうのである。そのモニュメントは、四つの河を表わす寓意像を配した岩山にルイ14世の騎馬像をおくという、ベルニーニのアイディアを剽窃し結合したような代物であった。このプランが1683年にコルベールの後継者によって中止され、最終的にベルニーニの騎馬像がパリに連ぱれることになった時には、ベルニーニはすでに世を去っていた。
これは彼にとって幸いだったといわねぱならない。というのは、1685年にパリに着いたベルニーニの作品は、ルイ14世の宮廷人からは全く理解されず、文字通り虐待されたからである。そしてベルニーニ自身も、この作品がフランスではあまり評価されないだろうという危惧を抱いていた。1678年に彼は、シャントルーに宛てて「王の騎馬像は完成しました。……しかし、彼らはこれを見てもほめはしないでしょう。けれども他の方々は、礼儀正しく、慎重で分別がありますから、私に同情して下さるでしょう」と書き送っている。
だが、ベルニーニは楽天的すぎた。事実はもっと過酷てあった。ルイ14世はこの像を一目見るなりひどく嫌悪し、壊せとまで命じたと伝えられるのである。結局この作品は、ジラルドンの手で顔が修整され、そのうえ馬の下の岩も炎に変えられて、全体としてマルクス・クルティウスの像に手直しされ、ヴェルサイュの片隅に迫いやられることによってかろうじて生き延びたのである。今日もこの騎馬像は、いわゆるスイス兵の池の彼方に淋しく置かれている。
しかし、この作品がパリでかくも批判され、虐待されたのはなぜであろうか。ベルニーニ自身はこの作品に大いに満足していたこと、そしてローマではそれが大へん称賛されていたことを考えると、この虐待ぶリは一層不可解である。助手の手が多く入ったこの作品は、類似した構成をもつコンスタンティヌス帝の騎馬像と比ぺても、またボルゲーゼ美術にあるすぱらしいテラコッタのモデルを思い浮かべても、その出来映えに感心しない点があることは確かである。しかしこうした印象には、今日の不幸な状態が災いしているとも考えられる。また出来映えの悪さがルイ14世にかくも激しい嫌悪の情をひき起こしたとは考えにくい。それでは、一体何が原因だったのだろうか。諸状況を考え合わせると、次の3つの点が原因として指摘できるように思われる。
まず第一は、ルブランらパリの美術家たちのベルニーニに対する激しい敵愾心と、彼らの反ベルニーニ宣伝の効果である。ルブランの対案の成功は、この効果の端的な現われだといえよう。こうしたパリの反ベルニーニ感惰がどのようなものだったかは、たとえぱベルニーニが帰国するかしないかのうちに、メダル作家のジャン・ヴァランか彼に対抗して王の肖像を制作し、完成すると宮廷人たちは大ぎょうにこれを称讃し、間接的にベルニーニの作品を批判した、という話からも想像できる。
第二の点は、ベルニーニ晩年の個性的なバロック様式がフランスの古典的感覚には容認しがたかった、ということであろう。ルイ14世の肖像の場合は、肖像という作品の性格によって両者の対立はある程度緩和されていた。たが今回は、ベルニーニが訪れた時よりも一層アカデミックな性格を強めていたパリに、突如として彼の最晩年の作品が運び込まれたのである。人々の反応は想像に余りあるといえよう。
そして最後の最も重要な点は、コルベールの連絡係も「優雅で高貴な着想」といっているベルニーニの作品の意図が、ルイ14世の宮廷では全く理解されなかったことである。この騎馬像は、ルイ14世をヘラクレスに見立てて、美徳のけわしい山を登りつめ、栄光と名声の頂きに達した王の姿を表わそうとしたものである。このようなルイ14世ヘラクレスといった着想は、17世紀にはごくありふれたものであり、人々はそれをすぐに理解することができた。しかしこの着想に加えてベルニーニは、美徳の頂きに立つ者には至福が待ちうけるという古代以来の文学的伝統をふまえて、永遠の至福の笑みを王の顔に表現したのである。微笑む太陽王!おそらくその謎めいた微笑みが、王の尊厳に反するように人々には映ったに違いない。このこと、つまりベルニーニ独自の着想が理解されなかったことが、このような像の運命を決定したように思われる。だが、こうした不辛な末路にもかかわらず、美徳の頂きに立つ王の騎馬像というベルニーニの着想は、この後ルブランによるルイ14世のモニュメントから18世紀後半に作られたペテルスブルグのピョートル大帝の像にいたるまで、ヨーロッパの王侯の騎馬像に広い影響を及ぱすことになるのである。