1.Basilica di San Pietro サン・ピエトロ大聖堂

Basilica di San Pietro
サン・ピエトロ大聖堂

1452年にニコラウス5世は、コンスタンティヌス帝が320年頃に建てた,初の聖堂を建て直すと決めた。しかし実際の工事は,1506年にユリウス2世の下でブラマンテの設計で始められた。
ブラマンテの後に,ラッファエッロ,バルダッサッレ・ペルッツィBaldassarre Peruzzi,およびアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネAntonio da Sangallo il Giovane が設計を継承し,長い間ギリシャ十字式設計(十字の縦横の長さが等しい)となるのかラテン十字式設計(十字の縦の方が長い)とするのか定まらなかった。
1546年以降はミケランジェロに設計が委託され,ギリシャ十字設計で高部にはクーポラを造り,広場の中央に置かれた大聖堂が設計された。
彼のあと,設計はヴィニョーラVignola、ピッロ・リゴリオPirro Ligorio,ジャコモ・デッラ・ポルタ Giacomo della Porta,および,ドメニコ・フオンターナDomenico Fontanaに受け継がれた。
1607年、パウルス5世の命で,力ルロ・マデルノはラテン十字に戻すことにし,教会の前方の袖を延ばし,内部に脇の3礼拝堂を加えた。さらにマデルノは,フアサードも制作した。
1626年11月18日,ウルバヌス8世がこの大聖堂を献堂した。  NTTガイド p195

サン・ピエトロの鐘楼

マデルノが建設したファサードは、明快すぎて宮殿のようでありあまり好評ではなかった。1629年にウルバヌス8世に命じられたベルニーニは、マデルノが構想だけに終わった、ファサード両端の鐘塔を実現させた。しかしこれも評判が悪く、イノケンティウス10世により取り壊された。

下積みを余儀なくされていたボルロミーニは、イノケンティウス10世の時代になると激しくべルニーニに襲いかった。1645年の3月から翌年2月にかけて5回ほど間かれた会議の席上で、彼はサン・ピエトロの鐘塔の失敗をベルニーニの技術的・専門的知識の欠如の結果であるとして、その責任を厳しく迫及したのである。この鐘塔はすでに述べたように、マデルノが放置したままになっていたのをベルニーニが1628年から引き継いだものであった。だがマデルノの基礎工事が充分でなかったのと、起工の際に点検した二人のマエストロとベルニーニ自身の認識が甘かったために、1641年に北塔がほぽ完成して祝賀の行事をした直後に前廊に亀裂が発見され、工事は中断したままになっていたのである。窮地に陥ったベルニーニは、塔を独立させるというプランを立てて会議に臨み、一方ボルロミーニも、軽量化した鐘塔の設計図を携えてこれに出席している。しかし、結局この鐘塔の建設は断念されることになり、教皇は1646年2月23日に鐘塔の取り壊しを命ずる文書に署名した。そしてこの取り壊しのために、ベルニーニは彼が所有していた公債を左し押えられたのである。後に教皇はこの決定を性急過ぎたと後悔した、とバルディヌッチは伝えているが、成功に次ぐ成功に明け暮れたといってよいベルニーニの生涯において、これは最大の屈辱てあり、初めての挫折であった。そしてこれに追い打ちをかけるように、1646年に布教聖省(プロパガンダ・フィーデ)の拡張工事を命せられたボルロミーニは、すぐさまベルニーニの設計で建てられた礼拝堂を撤去する計画を立てている。この工事が実際に行われたのはしぱらく後だったが、この建物はベルニーニの家のはす向いにあるから、彼は目の前で自分の作品が取り壊されるという屈辱を味わわされたのである。

ヴァチカンにおいてベルニーニは次のように加わっていく。
1624年、ウルバヌス8世に命じられてバルダッキーノの制作を始めたのが最初で、
1629年にカルロ・マデルノが死去したため、サン・ピエトロの主任建築士となり、ファサードの改築と大聖堂内部全体の構成、装飾をも任される。
1624-33 大聖堂内部バルダッキーノ制作
1631-38   〃 聖ロンギヌスらの柱の装飾
1633-47 私の子羊を飼いなさい
1628-47 ウルバヌス8世の記念碑
1633-37 マティルダの墓
ファサードの改築(鐘楼案)

1644年にウルバヌス8世が死去しイノケンティウス10世が教皇になると、ベルニーニはヴァチカンから遠ざけられ、ボッロミーニがその地位につく。

1656年にアレクサンデル7世が教皇になると再びヴァチカンはベルニーニのもとになり、改めて広場の建設と教皇宮殿の整備改築を担うことになる。
広場コロンナートの制作
教皇宮殿の改築
1658-66 大聖堂内部玉座の祭壇制作

1673年にクレメンス10世が教皇になっても引き続きベルニーニはヴァチカンの主であり、新たにサクラメント(秘蹟の)礼拝堂のチボーリオの制作を含む装飾を任される。
1673-75 秘蹟の礼拝堂
1671-78 アレクサンデル7世の記念碑

館内図

1.天蓋バルダッキーノ
Baldacchino
2A.聖ロンギヌスの柱と像
Statua di S.Longino
2B.聖アンデレの柱と像
Statua
2C.聖ヴェロニカの柱と像
Statua di S.Veronica
2D.聖ヘレナの柱と像
Statua
3.私の子羊を飼いなさい
Pasce oves meas
4.ウルバヌス8世の記念碑
Monumento di UrbanoⅧ
5.マティルダの墓
Monumento alla Contessa Matilde
6.玉座(聖ペテロの椅子)の祭壇
Altaere della Cattedra
7.秘蹟の礼拝堂
Cappella del Santissimo Sacramento
8.アレッサンドロ7世の記念碑
Monumento di AlessandroⅦ
9.参事会員の聖具室
Depositi della Reverevda Fabbrica
10.主要聖具室
Fabbrica di San Pietro
11.宝物館
Museo del Tesoro di San Pietro

1.天蓋(バルダッキーノ) Baldacchino

0001Basilica di San Pietro

天蓋(バルダッキーノ) Baldacchino1624-33
枢機卿マフェーオ・バルベリーニは1613年に教皇に即位したが、すでにそれ以前に竣工した大聖堂の十字交差部の中央の聖ペテロの墓所の上に飾り大天蓋(バルダッキーノ)の建造が検討されており、実際に設計が提出されていた。
ウルバヌス8世の教皇選出により、ベルニーニが依頼されることは確実となり、彼は1624年に制作を開始した。バルダッキーノの設計に関しては、旧大聖堂の天蓋の円柱と同様の、捻れ柱を使用した巨大なブロンズ製円柱の選択については、ベルニーニは他者からの提案を受け入れたらしいが、他のすべての点はベルニーニ自身の設計である。
1633年に完成。パンテオンからとったブロンズを溶かして制作された。
あらゆるところに金の蜂がとまり、教皇ウルバヌス8世の紋章が刻まれ、宣伝になっている。

R.G. Arte Arch. / Musei Vaticani
Graphische Sammlung -Albertina- / オーストリア
The Metropolitan Museum of Art / N.Y.
ICG/Calcografia; campionario 9 Identificazione: URBANO VIII BARBERINI PAPA Titolo proprio: MOLIS AENEAE QVAM FVSILI ARTIFICIO VRBANVS VIII. PONT. ..
ICG/ Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 57K6 Identificazione: STEMMA DI PAPA URBANO VIII BARBERINI Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: STEMMA DI PAPA URBANO VIII BARBERINI Collocazione opera finale/originale: VATICANO S. PIETRO CONFESSIONE
Basilica di San Pietro

コンフォッシオーネ Altare Papale Chiamato della “Confessione”
クレメンス8世(1592-1605)時代に作られた、「告白」と呼ばれる教皇の祭壇。バルダッキーノの下に入口、聖ペテロの墓の上に位置する。
調査では、この下にさらに、カリストゥス2世(1119-1124)とグレゴリウスⅠ世(590-604)の時代に作られた二つの祭壇が存在していることが判明している。
現在の祭壇は、聖ペテロを記念して4世紀にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑の真上に造られた。
祭壇自体は、ネルヴァ帝のフォルムで発見された、帝政ローマ時代の飾りのない大理石でできている。
地下にアッバティーニによるフレスコ壁画があり、ロッジアの建築案をウルバヌス8世に見せるベルニーニが描かれている。

2.4本の柱

2A.聖ロンギヌスの像 Statua di San Longino 1631-38

大クーポラを支える4本の巨大なピア(太柱)をはじめとする聖堂内部の装飾も依頼された。
クーポラの支壁の装飾として制作された4体の像は聖ロンギヌスだけがベルニーニの制作で、3体はそれぞれ弟子の手による。
聖人像とともに、壁龕の上部にもうけられたもう一つの壁龕には、ソロモンの霊廟の伝説の基づき造られた、コンスタンティヌス帝の時代の旧聖堂のコンフォッシオーネ(祭壇)を囲んでいたねじれ柱で飾られた、それぞれの聖遺物の象徴を掲げたテーマのレリーフがおさめられている。
それらの聖遺物は、聖週間(復活祭前の一週間)にここから人々に示される。
「聖ロンギヌス」の完成は1638年である。バルダッキーノ制作中に原型をいくつも準備していた。台座の下はグロッタへの入り口になっている。
像の高さは4.4mもある大型のもの。衣襞の効果を最大限に利用し、その動きは自然に逆らったものになっている。
22あったらしい習作粘土モデルのひとつがフォッグ美術館に現存するが、その衣襞は自然に忠実なものとなっている。現存しないが実物大の漆喰モデルも作ったとされ、この像のバランスというものにかなりこだわったと思える。
公開される聖遺物-ロンギヌスがキリストを傷つけた槍の穂先

ロンギヌス 1世紀(10月16日、3月15日)L.Longinus,Languinus,Longius.
〔伝記〕ゴルゴタの丘でキリストの処刑に立会った百人隊長。キリストの横腹に槍を突き刺した(ヨハ19:34)が、その血によって眼病を癒された兵と同一人物視される。福音書にはあげられていない百人隊長名は、ギリシア語ロンギノスが「長い槍」を意味することから生じた。神の子たることを確認した彼(マコ15:39)は、使徒に洗礼を受け、カイサリアで宣教し多数の改宗者を得た。殉教のとき彼の処刑を命じた盲目の総督に殉敦後、その眼が治されると預言した。処刑後彼の言葉通り開眼した総督は、キりスト教徒になる。遺骨はマントヴァヘ移され、12世紀以来同市の守謹聖人となった。なおキリストの聖血を受けた杯も彼が同市へもたらしたといわれる。
〔図像〕ローマの百人隊長あるいは中世の騎士の軍装で、徒歩か騎乗する。磔刑図中、徒歩では槍を腕に、馬上では兜を手に、キリストを見上げる。教義的表現としては受胎告知図や礫刑図中にそれぞれ聖母と天使、アリマタヤ出身のヨセフと対称的位置におかれる。また復活図では番兵として跪拝している。持物の長槍は、聖ゲオルギウスと異なり折れていない。彼が持つ巻物の聖句は、「本当に、(この人は)神の子だった‘Vere Fi1ius Dei erat iste’」(マコ15:39)

Fogg Museum of Art / U.S.A
ICG/ Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 34H2 Identificazione: S. LONGINO Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: S. LONGINO Collocazione opera finale/originale: VATICANO BASILICA S. PIETRO
ICG/Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 34H2 Identificazione: S. LONGINO Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: S. LONGINO Collocazione opera finale/originale: VATICANO BASILICA S. PIETRO

2B.聖アンデレの柱

公開される聖遺物-聖アンデレの頭部(もとは東方教会の物で、1963年にパトラスのギリシャ正教会に返還された)

アンデレ 1世紀(11月30日)E.Andrew. L.Andreas.
伝記〕シモン・ペトロの弟。ガリラヤのベトサイダの漁師で、ペトロと共にキリストの最初の弟子となる。福音書刺こは詳述されないが、『黄金伝説』中の同聖人行伝によって図像表現される。それによると、キリストの死後スキティア地方をはじめ、ギリシア各地を巡り、犬に化けた7悪魔を追放、大火災の消火など奇跡を行なったのち、やがてペロポネッソス半島のパトラスに至り、市のローマ総督アイギアスの妻マクシミリアの不治の病を癒して彼女を改宗させたため、怒った総督は答刑を加え、X形十字架へ逆さに縄で縛りつけ処刑した。3日後に絶命した彼はマクシミりアにより埋葬され、一方、総督は悪魔によって殺害されたという。また死後の伝説に、美女に扮した悪魔に誘惑されようとした一司教を巡礼姿の同聖人が救う話がある。ペトロをローマに独占されたことに対抗して、東方教会で特に崇拝され、ギリシアとロシアの守謹聖人となった。4世紀に聖遺物の一部がスコットランドに移され、その守護聖人とされた。またブルゴーニュのフィリップ善良公が1433年十字架の一部をコンスタンティノープルから持ち来ったところから、彼の創設になる金羊毛騎士団の聖人とされるにいたった。
〔図像〕アンデレが磔された十字架は、中世を通じ、14世紀のイタリアの美術まではキリストと同形のラテン十宇架ないしはY形であったが、15世紀以来いわゆる「アンデレの十字架のX形十字」が表現されて彼の持物とされるようになった。手に彼の十字架と福音書を持ち、白髪白髯の老人として多く描写される。また魚のかかった漁網、十字架につけられたときの綱などを持物とする。

2C.聖ヴェロニカの柱 Veronica

1635-39 Franchesco Mochi作
公開される聖遺物-ヴェロニカがゴルゴダの丘に向かうイエスの顔を拭いたベール

ヴェロニカ 1世紀(7月12日)LVeronica,
〔伝記〕ニコデモの外典福昔書によって、キリストの十字架運びの場面に現れるシリアの架空の聖女で、Vera icona(真実の画像)の人格化と考えられる。彼女がキリストの血と汗の顔を手布で拭ったところが、その布にキリストの顔が写し出されたという。ローマの聖ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)はそれといわれる。この伝説にもとづいて15世紀における布商人の神秘劇のキリスト受難場面では、彼女は盲目であったが、この布に目を触れると治ったという奇跡としてとり入れられた。のちガリアに行き、メドックのスーヤック・シュル・メールの砂丘にこもる。布商人、下着(製造)商人、洗濯業者の聖女。臨終の秘跡を受けずに死んだ人の護符や免罪にも関わる。今日では写真家の聖女。
〔図像〕トリエント公会議後は崇拝が衰えるが、中世末は盛んで、そのころはシリアの人を表わすターバンを巻いた中年婦人が、両手で胸の前にキリストの顔の写った布をかかげる。若い女として描かれることも多い。布で血と汗を拭きとる場面や、裸で上半身を木の盥から現わしているものもある。時にはローマの守護聖人ペトロとパウロの間に立つ図像がある。

ICG/Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 57K6 Identificazione: STEMMA DI PAPA URBANO VIII BARBERINI Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: STEMMA DI PAPA URBANO VIII BARBERINO Collocazione opera finale/originale: VATICANO S. PIETRO NICCHIA S. VERONICA

2D.聖ヘレナの柱

Bolgi制作
公開される聖遺物-ヘレナが発見した聖十字架の断片

ヘレナ 255頃~330頃(8月18日)I.Elena. L.Helena.
〔伝記〕コンスタンティヌス大帝の母。イングランド生まれという。帝の対マクセンティウス戦勝利(312年)後に改宗して、多数の教会堂を建設。326年エルサレムヘ巡礼、特に磔刑の行われたカルウァリア丘で数度の発掘を行い、三つの十字架(キリストの磔された真の十字架は、その上に病女を横たえて、彼女が治されたことによって擁認された)と、キリストの十宇架上につけられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見。ついでキリストを打ちつけた釘も発掘され、その二つは帝に捧げられ、彼は馬頭の飾り紐と兜にこれをつけたという。
〔図像〕王妃として冠をかぷり、豪華な衣裳をまとう。特徴ある持物はキリストの受難具で十字架、槌、茨の冠、3本の釘、時には聖墳墓の模型。ヘレナの見た、天使が十字架を持って現われる幻想の表現は16世紀以後

3.扉の上 私の子羊を飼いなさい

Museum der Bildenden Kunste Leipzig / ドイツ

私の子羊を飼いなさい Pasce oves meas 1633-47
デザインのみ 制作は弟子

4.ウルバヌス8世の墓 Monumento di UrbanoⅧ

ウルバヌス8世の墓 Monumento di UrbanoⅧ 1628-47
パウルス3世のそれと対をなすように構成されている。記念碑的性格が主ではあるが、死の象徴である棺をミケランジェロ以来復活させた。
左の慈悲の像は胸をあらわにして子供に乳を与えるポーズだったが、後に漆喰で覆われてしまった。

Archivio Chigi / Musei Vaticani
代替えテキスト
Windsor Castle -Royal Collection
Museum der Bildenden Kunste Leipzig / ドイツ
Museum der Bildenden Kunste Leipzig / ドイツ
ICG/ Calcografia; campionario 77B Identificazione: MONUMENTO FUNEBRE DI PAPA URBANO VIII Titolo proprio: DEPOSITO DI PAPA VRBANO VIII. ERETTO NELLA BASILICA VATICANA

5.マティルダの墓 Monumento alla Contessa Matilda di Canossa

ICG/ Calcografia; campionario 78B Identificazione: MONUMENTO FUNERARIO DI MATILDE DI CANOSSA Titolo proprio: DEPOSITO DELLA CONTESSA MATILDE ERETTO NELLA BASILICA ..

マティルダの墓 Monumento alla Contessa Matilda di Canossa 1633-37

カノッサのマチルダ(1055~1115年)というこの伯爵夫人は、教皇グレゴリウス 7 世と皇帝ハインリヒ 4 世が抗争した11世紀にローマ教皇の保護者として、抗争の調停において重要な役割を果たしました。
ウルバヌス8世バルベリーニは彼女の偉大な崇拝者であり、彼女の死後何世紀も経ているにもかかわらず、彼女の遺骨をマントヴァのサン・ベネデット・ポー修道院からローマに運ぶことを望み、1634年3月10日に街に到着し、サン・ピエトロ大聖堂に墓を建てた最初の女性となる。教皇はマチルデ・ディ・カノッサの記念碑の建設をベルニーニに依頼し、ベルニーニは1634年末にこのプロジェクトを開始した。
墓に刻まれた碑文には1635年に完成と書かれているが、実際には未完成のまま3年後の1637年3月10日に除幕式が行われた。

この気性の激しい伯爵夫人の遺骨を納めた石棺の上には、1077年1月28日のカノッサ城におけるドイツ皇帝ハインリッヒ4世が描かれており、皇帝は彼を破門したグレゴリウス7世の足下にひざまずいている。
教皇庁全体の擁護者であったマチルダ夫人像は、左手には聖ペテロの鍵(教皇)とバルベリーニ家の紋章である蜂をあしらったウルバヌス7世の教皇ティアラを、右手には指揮杖(皇帝)を持った姿で表されている。

ベルニーニのモデルに従って弟子が制作。
石棺の彫刻はStefano Speranza

この記念碑的な墓のプロジェクト全体はベルニーニのものであり、おそらくマチルダの頭を彫刻したのは彼でしょう。彫刻の残りの部分は、代わりにニッコロ・セールによって完成されました。
遺体を収容する石棺は、ステファノ・ストラッツァによって、マチルダの人生における重要なエピソード、つまり1077年1月23日に遡るグレゴリウス7世の前でのヘンリー4世の屈辱を表す場面を描いた高浮き彫りで装飾されています。
盾を支える上に配置された天使はアンドレア ボルジとマッテオ ボナレッリによって彫刻され、墓の上にひざまずく 2 つのプッティはルイジ ベルニーニとアンドレア ボルジによって作成されました。これらの 2 つのプッチは非常に精細に作られているため、本物のように見えます。左側の一人は、その年齢の子供に典型的な態度で口に指を当て、もう一人はマチルデを見つめ、片手で顎を支えています。
二人の天使の間にある巻物には、教皇ウルバヌス 8 世の甥であるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿によって書かれた彫刻が刻まれています。

所蔵不明
フォグ美術館

6.玉座の祭壇 Altaere della Cattedra

1658-66
大聖堂の入口から身廊沿いに眺めると、バルダッキーノの捻り柱がいわば額縁のようになって得られる偉観を、ベルニーニは後陣の祭壇の上に創造した。アレクサンデル7世の時代に1658年から1666年にかけて制作された。
すなわち大聖堂の貴重な聖遺物である聖ペテロの司教座であり、伝承によると聖ペテロが最初にローマに到着してプデンスの家に泊まったときにこれに座して説教を行ったという。けれども、実際にはこれは875年に禿頭王シャルルが教皇ヨハネス8世に寄贈した物である。象牙装飾の木造椅子で、この椅子は1217年の記録に初めて現れており、おそらく8世紀または9世紀の作品であろう。
この聖遺物を納めている金箔張りの浮き彫りのあるブロンズの玉座の周囲には、
4人の教会大博士
聖アウレリウス・アウグスティヌス、
聖アンブロシウス、
聖アタナシウス、
聖ヨアンネス・クリュソストモス
の大きなブロンズ像があり、玉座の上方には無数の天使たち、雲と光の渦の中に実際のステンドグラスの光により浮かび上がる聖霊がいる。 この巨大な装飾には、121t以上の青銅が使用された。
テラコッタ制作の時点では、背もたれと座部の下の部分のデザインが実際と違っている。

V&A South Kensington
ICG/ Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 44H5 Identificazione: CATTEDRA DI S. PIETRO Titolo proprio: CATHEDRAM S. PETRI IN INTERIORE TEMPLI Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: CATTEDRA DI S. PIETRO Collocazione opera finale/originale: VATICANO S. PIETRO
ICG/Calcografia; campionario 9 Identificazione: ALESSANDRO VII CHIGI PAPA Titolo proprio: CATHEDRAM S. PETRI IN INTERIORI TEMPLI FRONTE ..
Windsor Castle -Royal Collection
Detoroito Institute of Arts / U.S.A.
Pinacoteca / Musei Vaticani
個人コレクション
フォグ美術館
Pinacoteca / Musei Vaticani
中央祭壇の燭台
中央祭壇の十字架

博士 四人の(1月30日)I.IDottori della Chiesa.L.Doctores Ecclesiae.
〔解説〕ギリシアおよびラテン教会で最も有名な4人の神学者をいう。後世神学の精神的な祖として尊敬され、教会の父ともよばれる。福昔書に対応して4人は、ギリシア教会ではアタナシウス、バシリウス、ナツィアンツのグレゴリウス、ヨアンネス・クリソストムスで、アレクサンドリアのキリルスが加えられ5博士になることがある。ラテン教会はアンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスおよび大グレゴリウス
〔図像〕ギリシア敦会では区別して表現することは少ない。聖所のモザイク、フレスコ画で描写され、像は無帽、十字架を散らした法衣をつけ聖書を携え、右手でギリシア教会の礼式に従い祝福する。ラテン教会では主として被りもので個人別を表わす。教皇グレゴリウスは教皇の三重冠、ヒエロニムスは枢機卿帽、アンブロシウスとアウグスティヌスには司教冠というように。また東西を通じて4博士が単独で表現されることがある。特にルネサンスとバロック期に説教壇の装飾にこのテーマが用いられ、トリエント公会議後は高位聖職者の墓装飾として従釆の四美徳にとって代わった。15世紀に両教会の合同が企てられたとき、東西の四大博士が一緒に表現されたこともある。

7.秘蹟の礼拝堂 Cappella del Santissimo Sacramento

ICG/ Calcografia; campionario 77B Identificazione: BASILICA DI S. PIETRO CAPPELLA DEL SS. SACRAMENTO CIBORIO Titolo proprio: CIBORIO DI BRONZO DORATO E DI PIETRE PREZIOSE CON DVE ..

1673-75
ボッロミーニによる優美なバロック様式の鉄の門で仕切られた、秘蹟の礼拝堂がある。これは聖餐に捧げられた礼拝堂であるが、この秘蹟は、イエスが死と復活の前に使徒たちに語った言葉に基づいて、司祭によって聖別されたパンとワインに、主ご自身がおられるとするものである。中央の祭壇の上には、ベルニーニによる非常に高価な、小神殿の形をした櫃(Tabernacolo a forma di tempietto)がある。これはサン・ピエトロ大聖堂の最初の建築家だったブラマンテの、サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂にある小神殿を反映させたものであろう。そしてその背後には、1669年に、ピエトロ・ダ・コルトーナが描いた、三位一体(Trinita)がある(大聖堂内に絵画のまま残る唯一の祭壇画である)。これはカトリックの教義にもとづいて、唯一神が三つの同じ、しかも区別される人格として示される、という信仰の奥義を示したものである。その三つの人格とは、すなわち可視、不可視の宇宙の創造者である神、それから罪深い人類の贖いのために犠牲となり、死から甦り、最後の審判の日に再びやって来る受肉した息子、そして両者から発せられ、預言者にとっては霊感であり、教会の光と先導者である聖霊(ここでは輝く白いハトとして示されている)である。櫃の両側にいる青銅鍍金の天使像(Angeli di bronzo dorato)は、ベルニー二作。礼拝堂の丸天井と壁は、ピエトロ・ダ・コルトーナによる、聖餐に関するエピソードを表わした見事なスタッコ装飾でおおわれている。

Windsor Castle -Royal Collection- / U.K
State Hermitage / サンクトペテルブルグ
Museum der Bildenden Kunste Leipzig / ドイツ
チボリオのデザインDisegno per ciborio sorretto da due angeli
Fogg Museum of Art / U.S.A
Fogg Museum of Art / U.S.A
Museo del Tesoro di San Pietro / Basilica di San Pietro
Pinacoteca / Musei Vaticani

8.アレクサンデル7世の記念碑 Monumento di AlessandroⅦ

1671-78
ベルニーニ最後の作品として知られる。1678年完成時ベルニーニは79歳であった。「祈りの概念」を表現したこの墓はアレクサンデル7世自身によって注文されたが、実際の制作は彼の死去後クレメンス10世の時代になってから。
ウルバヌス8世の墓と類似した構成ではあるが、特徴であった石棺が壁龕に出入り口(祈りの扉)があるために採用されず、出入り口を布を模した大理石でおおいあたかも暮室への入り口か冥府への扉であるかのように見せるという見事な解決法を用いている。

真実
慈愛
正義
彫刻:テラコッタ
Pinacoteca nazionale, Siena
Victoria and Albert Museum / London
Windsor Castle -Royal Collection-/ U.K
ICG/ Calcografia; campionario 77B Identificazione: MONUMENTO FUNEBRE DI PAPA ALESSANDRO VII Titolo proprio: DEPOSITO DI PAPA ALESSANDRO VII. ERETTO NELLA BASILICA ..
ICG/Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 57K6 Identificazione: STEMMA DI PAPA ALESSANDRO VII CHIGI Soggetto opera finale/originale: STEMMA DI PAPA ALESSANDRO VII CHIGI Collocazione opera finale/originale: VATICANO S. PIETRO CATTEDRA PIEDISTALLO
ICG/Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 57K6 Identificazione: STEMMA DI PAPA ALESSANDRO VII CHIGI Opera finale/originale: TOREUTICA Soggetto opera finale/originale: STEMMA DI ALESSANDRO VII CHIGI Collocazione opera finale/originale: VATICANO S. PIETRO CATTEDRA PIEDISTALLO

9.参事会員の聖具室 Depositi della Reverenda Fabbrica

サン・ピエトロの角柱を参考にした、アレッサンドロ7世のダマスカス織り Damaschi con stemma di Alessandro VII per I pilastri della Basillica di San Pietro
ポルトガルのエリザベッタの聖列式 Addobbo di San Pietro per la canonizzazione di Elisabetta di Portogallo
ヴァチカン美術館のアンドレア・コルシーニの列聖式と同じ?
サン・ピエトロの司教座の容器
Custodia della cattedra di San Pietro
9cカロリング王朝時代の司教座を納めるための容器

10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro

以前ここにあると記載されていたこれらは、現在ヴァチカン美術館のPinacotecaの天使像のことだと思われる。たぶん、今はない。

Modelli degli angeli della Sedia in scala minore
Angelo a sinistra 1659-60  Angelo a destra 1659-60
Modelli degli angeli della Sedia in scala maggiore
Angelo a sinistra 1665  Angelo a destra 1665

11.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro

Ⅰ.柱の部屋
Ⅱ.聖ペテロの玉座の部屋
Ⅲ.聖職禄司祭の礼拝堂
Ⅳ.シクストゥスⅣ世の部屋
Ⅴ.聖遺物器の部屋
Ⅵ.燭台の部屋
Ⅶ.天使の部屋
Ⅷ.ギャラリー
Ⅸ.ユニウス・バッススの部屋

Ⅵ.燭台の部屋-4

二つの大きな展示ケース3,4には、二つのグループの燭台が収めてある。これらはピウス12世の時代まで厳粛な儀式の際に、大聖堂の主祭壇で使用された。第一のグループの燭台(Primo gruppo di candelieri) は、祭壇用十字架とともに鍍金したブロンズでできており、セバスティアーノ・トッリジャーニ作である(1585年頃)。これらの燭台は、その後長い問、無数の祭壇用燭台の形式に影響を与えた。第二のグルーブの燭台(Secnd gruppo di candelieri) は、鍍金した銀製で、アントニオ・ジェンティーリ・ダ・ファエンツァの署名が入った祭壇用十字架を含んでいる(1581年)。そのそばに置かれた二つの燭台も彼の作品である。そして残りの四つの燭台はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの素描をもとに、カルロ・スパーニャが制作した。台座にはめ込まれた水晶のメダイヨンには、ヴァレリオ・ベッリが受難伝の諸場面を刻んでいる。

Ⅶ.天使の部屋-6

秘蹟の礼拝堂の天使モデル Angelo di sinistra 1673頃 があるとされているのだが、
両方ともここにあるのか?

Museo del Tesoro di San Pietro / Basilica di San Pietro
Pinacoteca / Musei Vaticani

部屋不明

命ある十字架 Crocefisso vivo
十字架 Crocefisso