20.S.Andrea al Quirinale サン・アンドレア・アル・クィリナーレ教会

Chiesa di Sant’Andrea al Quirinale
サン・アンドレア・アル・クィリナーレ教会

Via del Quirinale, 30, 00187 Roma RM,

月曜定休 9時00分~12時00分 15時00分~18時00分https://santandrea.gesuiti.it/

1658年前教皇イノケンティウス10世の甥の枢機卿カミッロ・パンフィーリに依頼され、ジェズイット派のために設計されたベルニーニの代表作。1661年完成。
敷地に奥行きがないので、平面構成を横長の楕円形にして、その短軸上に入口と主祭壇を配置した。ファサードは両脇の2本の付け柱とその上のペディメントが玄関を囲む簡潔なものである。ところが玄関を入ると、巨大な付け柱に導かれて4本の円柱に仕切られた正面の主祭壇が迫ってくる。それは壁龕の中に設えられているために、楕円形の構成を乱すことなく、しかも天窓とは別の光源によって堂内に浮かび上がっている。さらに祭壇ペディメント上の上昇する聖アンドレアスの彫像(アントニオ・ラッジ、ベルニーニの助手作)が、天使(ラッジ作)の迎える楕円形天井の頂点へと視線を導く。暗褐色の大理石が基調をなす下部装飾は、金彩を施した豪華な漆喰装飾の天井部分と際だった対比を示す。

外観

建築設計

St. Andrea al Quirinale

サン・タンドレアは、前教皇イノケンティウス10世の甥カミルロ・パンフィーリの後援で、イエズス会の修練士のために建てられた教会である。アレクサンデル7世とベルニーニがこの教会の建設にいかに情熱を傾けたかは、その計画について二人で幾度も検討し合ったことをうかがわせる教皇自身の日記に明らかだ。しかし、この教会の建設には初めから厄介な間題があった。この場所にはすでに修道院が建てられていたために、教会の敷地として利用できるのは奥行きのない横長の土地しかなかったことである。しかしベルニーニは、この悪条件を克服するために、横長の楕円形プランという思いきった解決策を講じた。横長の楕円形というプランはまったく前例がないわけではない(パルマにフォルノーヴォが1566年に建てた教会がある)。しかしそれでも、まことに大胆で独創的な試みであることには変わリがないであろう。そしてこれに加えてさらに称讃すべきは、ベルニーニが与えられた悪条件をむしろ最大限に生かして、バロック建築の傑作の一つに数えられる作品を創造したことである。ベルニーニは常々、建築において最も称讃さるべきは、単に美しくりっばな建物をつくることではなく、あたえられた悪条件を克服してそれを美しい作品に転化することだ、と考えていた。 彫刻の場合にも、彼が困難な課題に取り組むことをむしろ好み、その克服に非常な努力を傾けたことは、すでに述べたとおりである。困難をむしろ創造へのバネとするベルニーニの気質は、建築においても変わりはなかった。彼は「もしそれ(障害)がなかったならぱ、それを作る必要がある」とさえ言っているのである。このサタンドレアの横長の楕円形プランは、悪条件がベルニーニの創造力を奮い立たせた好例といえるだろう。
ところで、楕円形のプランはすべてか相称ではないから、厳密にいえぱ集中式プランとは呼べないものである。だがヴィニョーラによって導人されたこのプランは(最初の作例はローマのサン・タンドレア・アル・フランミーニオとされる)、円形及びギリシア十字プランにはない独特の動感と方向性のために、いわぱ第3の集中式プランとして、ベルニーニ以降しばしぱ用いられることになる。ベルニーニ自身はこの楕円形プランを好み、プロパガンダ・フィーデの礼拝堂(すでに述べたように、ボルロミーニによって建て直されてしまった)や後に述べるサンタ・マリア・イン・モンテサント、そしてサン・ピエトロ広場でもこのプランを用いている。こうして考えてみると、あまりに厳格で静的なプランによっているサン・トマーゾとアリッチャの教会よりも、このサン・タンドレアが作品として成功した原因の一つは、楕円というベルニーニにふさわしいプランを採用したためだと思われる。そしてこの楕円を、常識を排して横長に用いるといういかにも彼らしい実験には、同じ通りに隣り合うボルロミーニのサン・カルロ・アルレ・クワットロ・フォンターネという、やはり楕円を基にしたプランに対抗しようとする意図があったことは間違いないであろう。扉口の石造りの軒屋根や凹面になった2枚の袖壁に挟まれた突出した半円形の階段に、曲面と反曲面による遊びがみられる。

Rome. Bernini, Gian Lorenzo. St. Andrea al Quirinale. Vault. 1658–78. Italy.

さてこの教会に足を踏み入れると、眼前に意表をつくような空間が開ける。前方に遠く拡がるラテン十字プランの教会に慣れた我々は、集中式プランの教会にさえ当惑することがあるのだが、この教会では空間が湾曲しながら横に拡がり、通常遠くにあるはずの主祭壇がぐっとせまって見えるのだ。しかし全体の分節は簡潔で力強く、また実に滑らかで、我々の注意は自然に主祭壇とその上の聖アンドレア(聖アンデレ)の像に集中する。この主祭壇は四本の円柱て仕切られた壁龕の中にあり、ここを照らす光も教会全体からは独立した光源から採られている。離れて見ると、この壁龕自体が、破風と円柱によって縁取られた一幅の絵画のように見える。その聖なる空間にグリエルモ・コルテーゼの《聖アンドレアの殉教》が祭壇画として納められ、聖者の生涯の凝縮した瞬間を我々に伝えているのである。けれどもベルニーニの主眼は、こうした教会本体から切り離された空間でのドラマを演出することではなかった。彼の主眼は、いつものように教会の内部を劇場に変えることにあった。このことは視覚的にもすぐに納得がゆく。つまり教会に人ったわれわれは、この祭壇画よりも先に、破風につけられた大理石の聖アンドレア像に注意を奪われるからである。この聖者の像は、その位置だけでなく、その色彩やドラマティックなポーズによっても際立っており、教会全体を文配するイメージとなっている。彼は雲にのり、両手を広げて天を仰ぎ、天使たちに迎えられて「天のドーム」に昇らんとしている。そしてそのドームは花飾りや殉教を表わすシュロをもつプットーたち、さらに聖アンドレアであることを示すオールや網や貝などを伴った漁師と覚しき像などで飾られている。つまり、ベルニーニは再び教会全体を劇場とみなし、祭壇からドームの頂きへ向って進行する宗教劇を演出したのである。このために彼は可能な手段を尽しているが、とりわけ顕著なのは光と色彩による効果である。この教会はバロック建築の中でも石材の最も美しい教会の一つだと思うが、その暗色系の石材による柱やコーニスは、いわぱ地上の物質として白い「天のドーム」に対峙し、またそれを支えているのである。そしてドームの頂きのランタンから入る光は、黄金の色彩を帯びて、それが至高の光であることを示している。ここには、ベルニーニの色彩に対する関心が最も見事に結実しているといえるだろう。中央の祭壇に隠し天井が設けられ、聖アンドレアの上に太陽光線が注ぐようになっている。外部の円窓は、この聖人の昇天の上に間接的に光を振りまく。
 またサン・タンドレアはこのような内部空間ぱかりでなく、そのファサードも独創的である。この教会の場合、教会自体が横長なために、通常のような文字通り前面をおおうファサードは困難であった。ベルニーニはこうした条件を充分考慮して、ファサードをむしろ入口の枠組みといった簡素なものにとどめ、そのかわり両脇に力強いうず巻きを刻んだ控え壁を露呈させている。ただし彼はその際、低い壁を半月形に設けて、教会本体がむき出しになることは避けた。そしてそれと同時に、これによって控え壁だけが強調されるようにし、あわせて訪れる者が自然に入口に導かれるようにしたのである。一方ファサードそのものは、円形につき出た前廊を二本の円柱と破風で囲っただけの単純なものである。しかしそれは、簡潔でありながらダイナミックな動きをもち、絵画的なまとまりのよさとともに強い三次元的働きかけをもつ、非常に個性的なファサードである。またこのファサードの効果に、パンフィーリ家の紋章の造形が果している役割も見逃せない。それはこのファサードを、建築からいわぱ彫刻へと変質せしめているからである。その点でまことにベルニーニの面目躍如たる「作品」だといえよう。しかもこの円形につき出たファサードは、教会内部の主祭壇を擁する壁龕と、あたかも「『ポジ』と『ネガ』のように」(ウィットコウアー)呼応し合っている。それによってベルニーニは外と内との調和を計ったのだ。初めにこの教会に入るとその空間構成に驚くと述べたが、実は教会に入る前に、すでにファサードによって我々はその内部を暗示されていたのである。
 ところである日のこと、ドメニコがお祈りをすべくサン・タンドレアに入ると、片すみで内部を楽し気に見渡している父親に出会った。ドメニコが一人で何をしているのかと問うと、ベルニーニは「息子よ、私はこの建築の仕事にだけは心の底から特別の喜びを感じる。だから仕事の気晴しに時折ここを訪れ、自分の作品で自らをなぐさめるのだ」と答えている。この時、ドメニコは父親が自分の作品には満足しないものと思っていたので、意外な一面を発見したと感した。このドメニコが伝えるエピソードに現われた最晩年のベルニーニ(この教会の装飾が完成したのは1670年である)の姿は感動的である。それはむしろ、彼の長い不屈の創作活動を思い描かせるからだ。ともあれ、この小さな教会に彼の理想が最も完全な形で実現されていることを、われわれはベルニーニ自身とともに喜ばずにいられない。       BERNINIp144~148

ICG/ Calcografia; campionario 77B Identificazione: S. ANDREA AL QUIRINALE IN ROMA SPACCATO DELLA CUPOLA Titolo proprio: SPACCATO DELLA CVPPOLA DELLA CHIESA DI S.ANDREA DEL ..
ICG/Calcografia; campionario 79 Identificazione: ITALIA ROMA S. ANDREA AL QUIRINALE INTERNO PORTA CON TIMPANO SCOLPITO Titolo proprio: PORTA PRINCIPALE DI DENTRO LA CHIESA DI S. ANDREA DEL NOUITIATO ..
IIdentificazione: ITALIA ROMA S. ANDREA AL QUIRINALE FACCIATA Titolo proprio: FACIES EXTERIOR TEMPLI S. ANDREAE APOSTOLI SOCIET. IESVS .. CG/Calcografia; campionario 138
ICG/Calcografia; campionario 138 Identificazione: ITALIA ROMA S. ANDREA AL QUIRINALE SPACCATO Titolo proprio: ASPECTVS INTERIOR TEMPLI S. ANDREAE APOSTOLI SOC. IESV ..
ICG/ Calcografia; campionario 138 Identificazione: ITALIA ROMA S. ANDREA AL QUIRINALE PIANTA Titolo proprio: VESTIGIVM TEMPLI S. ANDREAE APOSTOLI SOCIET. IESVS ..
ICG/ Gabinetto Disegni e Stampe, Fondo Corsini; volume 57K6 Identificazione: STEMMA DI PAPA INNOCENZO X PAMPHILI Opera finale/originale: SCULTURA Soggetto opera finale/originale: STEMMA DI PAPA INNOCENZO X PAMHILI Collocazione opera finale/originale: ROMA S. ANDREA DEL QUIRINALE FACCIATA

ばら色の大理石の内装から「バロックの真珠」と呼ばれるこの教会は,ベルニーニが設計した。イエズス会のためにつくられたので,IHS(救世主イエスを意味する)の紋章が数多く見られる。奥行きがなかったため,ベルニーニは楕円形の長軸を祭壇方向にではなく,両サイドに向かって置くプランを採用した。祭壇の十字架にかけられた「聖アンドレア」は,スタッコ細工の彼自身の姿を見上げ,見上げられた当人はさらに,ドームの明かり採りと聖霊を見上げている。また聖スタニスラス・コスツカの部屋を見のがさないこと。この部屋は,1568年に19歳で亡くなった見習い僧の住んだ部屋であるが,修行生活の厳しさよりも,当時のイエズス会の豊かな暮らしぶりがうかがい知ることができる。このポーランド出身の聖人の大理石像を制作したのは,ピエッレ・レグロスである。

 例えばボッロミーニが設計したサン・カルロ・アッレ・クワットロ・フォンターネ教会の中に入ると、楕円形の天蓋が目に入るが、それは白く塗られ、幾何学的なモチーフに満たされていて、よく計算された、端正な芸術に接したという気分になる。それを設計したボッロミーニの、冷静に突きつめた情熱が感じられて、静かな感動が湧いてくる。
 ところがその近くにある、サンタンドレーア・アル・クイリナーレ教会に行くと、まったく違う体験が得られる。この教会はイエズス会に深く共鳴していたベルニーニが無報酬で設計したもので、内部にはボッロミーニのものと同じように、楕円形の円蓋が使われている。だが何と違う世界だろうか。ベルニーニの円蓋は金色を基調にしており、幾何学的模様とともに、優雅に体をねじる数多くの人物が配され、下を見下ろしている。訪問者に語りかけてくるような、何ともにぎやかで、饒舌な世界が作られているのだ。
 この中に入ると、愛想のいいローマ人のサロンに迎え入れられたような気分になる。未知の人にも開け広げで、寛容の心で接する、イタリア人の長所を表している場所のように思えるのだ。ベルニーニはふところの深い人物だったのだ。そしてある時には自分自身を突き放して見る余裕も持っていたと思う。それが彼の芸術の長所であり、もしかしたら欠点になっているのかもしれない。               ローマの泉の物語  竹山博英