
ボルゲーゼ美術館
Piazzale Scipione Borghese, 5, 00197 Roma RM,
ボルゲーゼの公式サイトは日本からは繋がらない。
アクセシヴィリティ ヴァージョン ってのができている!(笑)
https://www.collezionegalleriaborghese.it

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、17世紀の半ばにはほぼ今日みられるようなコレクションを完成させていたが、ベルニーニやカラヴァッジョなど、当時活躍していた作家の作品はともかく、ラファエロ、ティツィアーのなどの16世紀の大作家の作品は、すでに手に入れることは難しく、しばしば盗賊まがいの不正な手段でこれらの作品を集めさせたといわれている。18世紀後半にはM.ボルゲーゼ公(Marcantonio Boughese)が館の内部を改装して収集品を展示したが、その後ナポレオンの妹を妻にしたC.ボルゲーゼ公(Camillo Borghese)はパリのルーヴル美術館にコレクションの一部を贈ることを余儀なくされ、そのいくつかはそのままフランスに残った。1902年、イタリア政府はボルゲーゼ家から館とコレクションを買い上げ、一般に公開した。

1F彫刻館-2
「ダヴィデ」 Davide


「ダヴィデ」 Davide
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1623年8月から24年にかけて一気に仕上げた。
石鍋真澄-ダヴィデ

1F彫刻館-3
「アポロとダフネ」Apollo e Dafne

「アポロとダフネ」Apollo e Dafne
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1622年8月から25年。
オウィディウスの「変身物語」に基づき、アポロンの抱擁をさけようとしたニンフ、ダフネが月桂樹に変身する瞬間が主題。物語の劇的な頂点を絵画的にとらえ、大理石をロウのように自在に扱い、しなやかな肉体の感触、激しい運動感を写実的で幻想的な美しさで表現している。
台座には出典からの引用と教皇ウルバヌス8世が捧げた詩がある。
つかの間の美形を追い求める恋人は
苦い果実をむしり、手のひらを葉で充たす
この像も目に鉛筆でシャドーあり




1F彫刻館-4
ネプチューンとイルカ Nettuno e un delfino


ネプチューンとイルカ Nettuno e un delfino
1662 ブロンズ ほとんど真っ黒
ネプチューンとdelfinoイルカであって、Nettuno e Tritoneトリトンではない。
ヴィクトリア&アルバートに大理石のトリトンがある。その大理石のものは、シクストウス5世の甥アレッサンドロ・ペレッティ枢機卿の注文で制作されたもので、元来はエスクイリーノの丘にあった枢機卿の別荘ヴィラ・モンタルトの庭園に置かれていた。古代の彫像で飾られた丸い池の奥に置かれていたらしい。
V&Aで紹介されているブロンズのものとも違うと思われる
それとの関係はどうなのか?
どこにあったものか?由来等不明

この解説によれば、
ジャン ロレンツォ ベルニーニが19世紀末に取り壊されたヴィラ ネグローニ モンタルトの池のために 1622 年に制作した大理石のネプチューンの縮小版レプリカで、オリジナルのトリトンがイルカに置き換えられている。作者の特定については批評家の間で意見が一致していないが、ある者によればベルニーニのサークルに属している可能性があり、他の者によるとフィレンツェの模写家であるという。


Neptune and Triton
Object:Statuette
Place of origin:Italy (or England, made)
Date:18th century (made)
Artist/Maker:Bernini, Gian Lorenzo, born 1598 – died 1680 (after, sculptor)
Materials and Techniques:Carved pine
Museum number:A.62-1925
Gallery location:In Storage
– V&A –
「プロセルピーナの略奪」 Il Ratto di Proserpina

「プロセルピーナの略奪」 Il Ratto di Proserpina
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1621年から22年。
マニエリスム彫刻が螺旋状の運動表現と多視点を特徴とするのに対し、正面からの単一視点で動きの瞬間を写真のようにとらえている。
シピオーネ・ボルゲーゼの注文による本格的彫刻作品の第一作は《アエネアス》だったが、ベルニーニはこれに続けて三つの作品を制作した。ボルゲーゼ美術館の至宝《プロセルピナの略奪》、《ダヴィデ》、そして《アポロとダフネ》がそれである。
三作の最初は《プロセルピナの略奪》で、《ネプテューンとトリトン》に続いて1621年から22年にかけて制作されたと考えられる。



1F彫刻館-5(Hermaphrodite Room)
眠れるヘルマプロディートス de’l Hermaphrodite
この彫刻については、いくつもが存在していることにより、とてもややこしい話になっている。
『ヘルマプロディートスはしばしばギリシア彫刻に霊感を与え、ヘレニズム時代に製作(複製)されたうちの数体が保存されている。中でも最も有名な作品は、別名『眠れるヘルマプロディートス』と呼ばれる『ボルゲーゼのヘルマプロディートス』である。そのほかにローマ国立博物館やルーヴル美術館、リール美術館などにもレプリカが所蔵されている。Wikipedia』
そもそもこの日本語のwiki「ヘルマプロディートス」の表現が誤解を招く。
ボルゲーゼのものと紹介されるものにも、マットの種類が違う2種類が混在している。
左のものがベルニーニがマットレスを制作した「ボルゲーゼのヘルマプロディートス」であるらしい。右のくしゃくしゃなシーツの方がベルニーニらしいと思うのに、残念である。
そして「Hermaphrodite musei borghese」で検索すると、ルーヴルの方がいっぱい出てきてしまうのでsる。
①ボルゲーゼのヘルマプロディートス
17 世紀はじめ、ディオクレティアヌス浴場の近く、古代のサルスト庭園の範囲内にあるサンタ マリア デッラ ヴィットーリアの敷地内で教会の基礎が掘られていたとき(1608年)、またはエスパリエが植えられていたときに発掘されたもの。
この彫刻はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に贈られ、ボルゲーゼ枢機卿はその見返りに建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ソリアの注文を承諾し、16年後ではあるが教会のファサードの費用を支払った。(彼の新しいボルゲーゼ公園には、「雌雄同体の間」と呼ばれる部屋がありました。)
1620年、シピオーネの弟子であるジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、ヘルマフロディトゥスが横たわるボタン付きマットレスを製作したことで60スクディを受け取った。非常にリアルなので、訪問者は試してみたくなるほどだ。
同じ年にダヴィッド・ラリクは、ヘルマフロディトス自体の修復を手がけた。
1807年ナポレオンが彼の義理の兄弟に当たる、カミロ・ボルゲーゼ公(ポーリーヌ ボナパルトと結婚していた)から一連のボルゲーゼ・コレクションを購入した後、ルーヴル美術館に収集された。
というわけで、所有はルーヴル美術館であり、ボルゲーゼにある場合はルーヴルから借りたということになる。
上の写真は、その借りたときの写真。
これを「ボルゲーゼのヘルマプロディートス」と呼ぶからややこしくなるのだ。
マルカントニオ4世の子カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼ (1775~1832) は、ナポレオン1世の妹ポーリーヌ・ボナパルトと結婚し、ナポレオン体制下でピエモンテ総督となった。カミッロ・フィリッポはボルゲーゼ・コレクションを売りに出し、これを入手したルーヴル美術館の所蔵品は充実した。ナポレオンが失脚するとポーリーヌと離婚して隠遁した。
おそらくこれによってルーヴルに移ったものと思われる。
そしてルーヴル美術館にはこの「ボルゲーゼのヘルマプロディートス」ともう一つ、計2体のヘルマプロディートスがあるのだ。

statue ; Hermaphrodite endormi
Epoque / période : romain impérial
Date de création/fabrication : 1e moitié IIe s. ap. J.-C. (100 – 150)
Lieu de création : Rome
Lieu de découverte : Rome – 1618 (thermes de Dioclétien)

ヴェッレトリのヘルマフロディトス
statue
Epoque / période : romain impérial
Date de création/fabrication : IIe s. ap. J.-C. (100 – 200)
Lieu de création : Italie
Lieu de découverte : Velletri – 1795
②ここのヘルマプロディートス
1774 年に、それまでヴィッラ ピンチャーナ(現在のボルゲーゼ美術館)の地下室に保管されていた、ボルゲーゼ家所有の別のヘルマプロディートスにも光を当てようとベッドが与えられた。彫刻家はアンドレア・ベルゴンディで、柔らかなひだで活き活きとしたシーツに包まれたマットレスと枕で構成されるベッドを制作しました。
この 2 番目のヘルマフロディトゥスは 19 世紀初頭までカンポ マルツィオのボルゲーゼ宮殿に展示されていましたが、1807 年にパリ持っていかれた①のヘルマフロディトゥスと置き換わるためにヴィッラ ピンチャーナに運ばれた。これがここにあるヘルマプロディートスである。
裸で体を伸ばしたこの人物は、親密な休息の瞬間を捉えており、持ち上げられた骨盤に対してバストがわずかにひねり、睡眠中の動きを示唆しています。このようにして、観客が腰、曲がりくねった臀部、顔などを観察する視覚の 2 つの側面が作成され、もう 1 つはその反対で、男性と女性の二面性が明らかになります。ヘレニズム時代のオリジナルに触発されて、西暦 2 世紀に遡るローマ時代の精緻な作品です。大プリニウスは、ヘルマフロディトスの像はおそらく紀元前 2 世紀に制作されたギリシャの彫刻家ポリュクレスの作であるとしています。
この像はエンニオ・キリノ・ヴィスコンティによって言及され、アントニオ・ニビーによって詳細に説明されました。彼はその見事な出来栄えと大理石の品質を賞賛し、それはルーヴル美術館に収蔵された作品よりも優れていたと述べた。ヴィスコンティは、①の像と同じくディオクレティアヌス浴場の近く、古代のサルスト庭園の境界内にあるサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリアの地域から来たものであると信じていました。
この彫刻は最初ボルゲーゼ公園の地下室に保管され、その後カンポ・マルツィオのボルゲーゼ宮殿に移されました。そこでヴィルヘルム・ハインセは、1781 年から 1783 年にかけてローマに滞在し、修復とマットレスの追加についても言及し、熱烈な言葉で言及しました。アンドレア・ベルゴンディ著。
Inventario CLXXII
Posizione Sala 5 – Sala dell’Ermafrodito
Datazione II secolo d.C.; 1774
Tipologia arte antica
Materia / Tecnica marmo greco macrocristallino; marmo bianco di Carrara
Misure 162×172 cm ; parte antica 145 cm

③テルメのヘルマプロディートス
1880年に、ローマを新たに統一されたイタリアの首都にするための建設工事中に発見され、ローマ国立博物館の一部であるマッシモ アレ テルメ美術館に展示されている。


その他複製
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
バチカン市国、バチカン美術館
サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
スペイン王フェリペ 4 世のためにベラスケスの依頼によりブロンズで制作され、現在プラド美術館に所蔵されているもの。
ヴェルサイユのために(彫刻家マルティン カルリエによって大理石で)制作されたもの。
ジョヴァンニ・フランチェスコ・スシーニによって作られ、署名された縮小版のブロンズ複製品は、現在メトロポリタン美術館に所蔵されているもの。
フランソワ・デュケノワによって象牙で届けられた別の縮小版は、1640 年代にジョン・エヴリンによってローマで入手されました。
アメリカの職人バリー X ボールは、ルーヴル美術館の翻案を受けて、2010 年に完成したカララ大理石の台座にベルギー産のダーク大理石を使用して等身大の複製を作成しました。



1F彫刻館-6
「トロイアを逃れるアエネス、アンキセス&アスカニウス」Enea con Anchise ed Ascanio

「トロイアを逃れるアエネス、アンキセス&アスカニウス」
Enea con Anchise ed Ascanio
シピオーネ・ボルゲーゼの最初の注文。1619年完成。
ベルニー二が十代の研究成果を本格的彫刻作品で試す機会は、シピオーネ・ボルゲーゼによって与えられた。今日もボルゲーゼ美術館に残る《トロイアを逃れるアエネアス、アンキセス、そしてアスカニウス》がそれである。この作品に関しては、1619年10月付の支払いの記録が発見されているので、この時までに完成されていたことが分かる。おそらく前年から制作されたのであろう。主題は、ヴェルギリウスの『アエネイス』にある、アエネアスが老父アンキセスを背に負い、少年アスカニウスを連れて炎上するトロイ了を逃れる、という有名名なエピソードである。
目の部分に鉛筆でシャドーを入れている。

「真実」 La Verita



「真実」 La Verita
1646-52
S・ピエトロ大聖堂の鐘塔の失敗と、プロパガンダ・フィーデ宮の礼拝堂がボッロミーニによって撤去されるという屈辱続きに対する意志表示として、「真実を明らかにする時」の像を1646年から制作し始め、真実の像だけが完成した。
こうした出来事(詳しくはサン・ピエトロ寺院)に対してベルニーニが行った意志表示は、我々現代人には想像もできない類のものであった。それだけに一層、この時代がどんな時代であったかを実感することができる。
ベルニーニはまず教皇の実家パンフィーリ家の女宰相オリンピアのもとでコメディーを上演し、誹謗に苦しむ主人公に「時は真実を明らかにするというのはほんとうだが、たいていは間に合わない」と語らせ、さらに自分の家に《真実を明らかにする時》の像を制作したのである。
このうち、コメデイーは1646年の謝肉祭に上演されたものだが、すでに上演の前からベルニーニが何らかの弁明をするらしいという噂が広まっていた。しかし、おそらくはその風刺と卑猥な表現のために、「あまりに自由でスキャンダラス」と批判されたというから、弁明が成功したといえるかどうかは疑わしい。
一方彫刻の方は、真実の像だけが完成し、これと組み合わさるはずたった時の寓意像は、大理石のブロックのままで残ることになった。ベルニーニはこの〈真実〉を「真実こそ最大の美徳だ」という教訓として子供達にのこした。後にパリで彼はある人からこの像を称墳されると、ローマでは「真実はベルニーニのところにしかない」というのがことわざのようになっている、と愉快そうに語っている。
べルニーニが《真実を明らかにする時》の像をどのように構想したかは、最初のアイディアを描きとめたと思われるデッサンと、彼自身がパリで語ったことからほぼ見当がつく。
それによれば彼が構想したのは、飛翔する「時」が右手で「真実」のヴェールをまさに取り去った瞬間であった。この点を考慮すると、今日ボルゲーゼ美術館にある《真実》が、驚きと恥らいのポーズをとりながら上を見上げているのと、ヴェールが何の支えもなしに中空から垂れ下っているのが納得できる。
この群像がもしも完成していたならばどのようであったかは、サンタ・マリア・デル・ポポロにある《ハバククと天使》の像と比べてみるのが一番よいように思われる。ベルニーニは《真実》と組み合わさる「時」の像について、万物を破壊するという「時」のもう一つの側面を表わすために、壊れた柱やオベリスクや廟を挿入し、それらを「時」の像の支えにしたいと語っている。
完成した《真実》だけでもすでに等身大をこえる大作であるが、彼はこれにこうした複雑な構成をもつ「時」の像を加えるという、壮大な構想を抱いていたわけである。
実際、《真実》がようやく完成しようとしていた1652年に、エステ家の使者に全体の完成には少なくともあと8年はかかるだろうと述べており、また同じ使者にすべてを自分ののみから作り出すと明言しているから、ベルニーニはこの群像によほど力を人れていたのである。だが幸か不幸か、再び公的作品の制作に忙殺されるようになったため、「時」の像のために購入された大埋石はついに手をつけられることなく終ってしまった。




2F絵画館-14
「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」 ① Ritratto di Scipione Borghese
「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」①
Ritratto di Scipione Borghese 77.2cm
CCLXV
教皇ウルバヌス8世の命を受け、1632年に制作する。
シピオーネ・ボルゲーゼは1633年10月8日に世を去るが、その前年にベルニーニは教皇の命を受けて彼の肖像を制作した。おそらく、教皇は教皇選挙の折に便宜を計ってくれた枢機卿への好意から、肖像の制作を命じたのであろう。ベルニーニがこれを喜んで引き受けたことは想像にかたくない。むしろ彼自身がこの計画を提案して、教皇の許可を求めたのであったかもしれない。



「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」②
「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」②
Ritratto di Scipione Borghese 78cm
CCLXVI
肖像の制作が最終段階に入った時、額のところにひびがあるのが発覚した。そこでベルニーニはこの肖像が完成すると、すぐさま品質に間違いのない大理石を用意して、まったく同じ肖像を制作した。彼はこの第二の肖像を、バルディヌッチによれば19日間、ドメニコによれぱ昼夜3日で仕上げ、仕上がるとシピオーネ・ボルゲーゼをアトリエに招いた。枢機卿はその出来映えに満足したが、やはリ額のひひが気になる。しかし紳上たる枢機卿はそれを面に出さずにいると、ベルニーニは何くわぬ顔で会話を交わしてから、第二の完壁な肖像を披露し、シピオーネ・ボルゲーゼを大いに喜ぱせたというのてある。この二つの肖像は、今日もボルゲーゼ美術館に対にして飾られている。

「パウルス5世の肖像」 Paolo Ⅴ Borghese
「パウルス5世の肖像」 Paolo Ⅴ Borghese
1618年完成または、1623年。35㎝
CCXLVIII
一般にいわれる1618年よりは幾分早い時期の作品と思われるが、最初期の肖像(サントーニの肖像、コッポラの肖像)と比べると、大理石のデリケートな仕上げにも、衣服の巧みな処理にも、格段の進歩が認められる。
パウルス5世とベルニーニの間には、以下のエピソードも残されている。
シピオーネ・ボルゲーゼが幼いベルニーニを教皇の御前に連れていった時の話である。その時ベルニーニは、聖パウロの頭部を描くよう求められるが、見事にそれを仕上げ、非常な称賛を得る。するとパウルス5世は居合わせた枢機卿に、「この子供が彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言ったというのである。この日教皇が褒美にとらせた12個の金のメダルは、記念として今も我が家に保存してある、とドメニコは伝えている。後年ベルニーニ自身パリてこの出来事に言及しているが、それによれば、彼の手に成る聖ヨハネの頭部を見た教皇は、それが幼い子供の作品であるとは信じられず、目の前で聖パウロを描いてみるよう求めたという。これは8歳の時の出来事だ、とベルニーニは語っている。
一般にいわれる1618年よりは幾分早い時期の作品と思われるが、最初期の肖像(サントーニの肖像、コッポラの肖像)と比べると、大理石のデリケートな仕上げにも、衣服の巧みな処理にも、格段の進歩が認められる。
写真によって、台座のデザインが違う…。時代の違いなのか?
現在HPは上の立派なやつ。古い写真にも立派な台座のやつもある。
「博物館の保管庫から発見されたアンティークイエローのオリジナルの台座も復元されました」という記述もあるので、詳細再確認のこと。


教皇パウロ 5 世の胸像 3つのヴァージョン



1番目:ポール・ゲッティ美術館
この作品は、教皇自身からの直接の依頼により、 1619 年から1620 年頃にベルニーニによって制作され、 1621 年に教皇が亡くなるまで教皇によって寝室に保管されていました。この日以降、この作品はリペッタのボルゲーゼ宮殿に保管され、その後 1893 年までボルゲーゼ公園の「ギャラリー」に保管されていましたが、その年の 3 月 13 日から 24 日にかけてローマで開催されたオークションで、アレッサンドロ アルガルディの作とされ、落札されました。画家、画商であるヴィンチェンツォ カポビアンキ(ローマ 1836-1928)の古美術ギャラリーと、ボルゲーゼ コレクションの他の美術品。1893年のオークション直後、この彫刻は何年も後にイタロ・ファルディが述べたように、おそらくアントニオ・ムニョスの推薦により、ウィーンの個人コレクションに移されましたが、19世紀末以来、その痕跡はすべて決定的に失われています。ベルニーニの第一人者であるフランチェスコ・ペトルッチによって再発見され、ベルニーニのものであると再帰され 、現在はマリブのゲッティ美術館に所蔵されている。
2番目:ボルゲーゼ美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の依頼により、教皇の死後、長く信じられていた1618年ではなく、1622年頃に制作されたもので、他の2つのバージョンよりも小さい。様式的には、このビスチェは、 1622年から1623年という日付を提案したアンドレア・バッキが正しく指摘したように、それ以前の10年間の肖像画よりも1620年代初頭の肖像画に近い。眼球の虹彩と瞳孔の欠如は、ベルニーニ自身がフランチェスコ・バルベリーニ僧侶の肖像画で行ったように、死後の肖像画で一般的に採用されるモチーフである(ワシントン、国立美術館))およびアントニオ・バルベリーニ(ローマ、国立古代美術館、バルベリーニ宮殿)による。ローマのボルゲーゼ美術館に保管されています。
3番目:コペンハーゲン国立美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、前の2つの大理石の胸像の処刑後、1623年頃、「カヴァリエーレ・ベルニーノの命令で」彼の指示の下、鋳物師セバスティアーノ・セバスティアーニに教皇のブロンズ胸像を制作するよう依頼した。ブロンズ胸像は、1892年に前回のジャコミーニとカポビアンキのオークションでボルゲーゼ・コレクションから落札され、やはりアレッサンドロ・アルガルディ作とされ[1]、その後コペンハーゲンのスタテン美術館に移された。
ローマのサンタ・マリア・マッジョーレにある石膏版は、おそらくこの像のコピーのキャストです (Maria Teresa Di Lotto in Vatican City 1981, pp. 99-100)
https://www.kulturarv.dk/kid/VisVaerk.do?vaerkId=529988
1番目ヴァージョンの再発見
20 世紀の大部分で失われたと考えられていましたが、2014 年にブラチスラバに再び現れました。それが、いつどのようにしてブラチスラヴァ(現在のスロバキアの首都)に、 2004年に亡くなった有名なスロバキアの芸術家エルネスト・ズメタークのコレクションとして到着したのかは不明である。
同市では、 2014年9月23日に地元のオークションハウス、ソガ(ロット200)で「無名のイタリア人彫刻家によるローマ法王の胸像」として数万ユーロで落札された。
推定ベルニーニのサインを確かめるために、その街に住む若いフランス人実業家である幸運なバイヤーは、ベルニーニの主要な専門家の一人に頼った。
アリッチャのローマ・バロック博物館の館長を務めるフランチェスコ・ペトルッチ氏。この学者の話は興味深いものです。「彼は私に一人で行くことを望み、私をブラチスラヴァの郊外に連れて行き、それから私たちは一連の鉄のドアを通って地下室に入りました。完全に空っぽの部屋に到着し、上の小さな窓からのみ換気が行われていた私は、地面の上、プラットホームの上に、白いシートで覆われた胸像を見た。」失われた名作が約120年の時を経て復活した。所有者はサザビーズオークションハウスを通じて、現在の所有者であるゲッティ美術館に作品を転売した。
https://spectator.sme.sk/c/20058936/slovak-auction-house-sold-original-bust-by-bernini.html
「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル Modello della Monumento di LouisXⅣ
「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル
Modello della Monumento di LouisⅩⅣ
1671年。ルイ14世に命じられ制作するが実際の像はパリに運ばれて、改変されヴェルサイユ宮殿にある。

ルイ14世の騎馬像のための指示書セット









「山羊の乳をもらうジュピターとファウヌス」 Giove e un piccolo fauno allattati da una capra

「山羊の乳をもらうジュピターとファウヌス」
Giove e un piccolo fauno allattati da una capra
1609年作。ベルニーニ最初の作品とされる
ベルニーニの最初の作品ということで識者の意見がほぽ一致している《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》は、1926年にロベルト・ロンギがザンドラルトの記事に基づいてベルニーニの作とするまで、長い間誤って古代の作品と考えられてきた。ミケランジェロが古代の作品を模した彫刻をわざと地中に埋めて人々をだました、というエピソードを思い起こさせる話である。実際この作品は、主題だけでなく、その写実的表現や全体のややくだけた趣きという点で、ヘレニスム彫刻に酷似している。このことは、ベルニーニの出発点が古代美術の研究にあったことを如実に物語っているといえよう。後年パリのアカデミーで講演した際、ベルニーニは「ごく若い時には、私はしばしば古代の作品をデッサンした」と語っている。また伝記作者も、ローマに着いてから最初の3年間を、少年ベルニーニは朝から晩鐘までヴァチカンの古代彫刻をデッサンして過ごした、と伝えている。この《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》はボルゲーゼ美術館の2階につつましく置かれているが、つぶさに観察すると、未熟なところが随所に認められる。けれども、幼いゼウスややぎアマルテアの造形には、十歳そこそこの少年の手に成るとはとても思えぬほど、生き生きした息吹が感じられる。つまり、幼いモーツァルトの作品の場合と同様に、この作品は見る者にある種のほほえましさとともに、天才を予感させる何ものかを感じさせるのである。芸術における天与の才とは何かを啓示する作品として、この小品は測り知れない価値をもつと筆者は考える。なお、豊饒を表わすアマルテア、幼いゼウスと笑いながら乳を飲むサテュロスから成るこの彫刻は、シピオーネ・ボルゲーゼ周辺の詩文等から、パウルス5世の新しい「黄金時代」の喜びを表わしたものだと解釈されている。

自画像 Autoritratto

「自画像 青年期」 Autoritratto in eta giovanile
油絵 1622頃 39×31cm
Inventario 554


「自画像 熟年期」 Autoritratto in eta matura
1635頃
キャンバスに油彩
53×42cm
Inventario 545


「少年の肖像」 Ritratto di giovane
1623-25頃
33×28㎝
Inventario 555

ボルゲーゼ公園 Villa Borghese
公園内のP.Canonica通りあたりにムーア人の噴水のオリジナルがある。19世紀にオリジナルはここに置かれ、ナヴォーナ広場にはコピーが置かれた。
という記述があるのだが、
⑳のFontana dei Mascheroni e dei Tritoni あたりがそうか?要、確認。
⑳は違うようだが…、他にも見当たらない。
Galleria Sangiorgi
複雑な物質性と並外れた比喩的な力を特徴とするこれらの写真は、複数のエージェントの超時間的ネットワークへのアクセスを提供し、それらの写真自体が時間によって形作られた移動可能な「写真オブジェクト」としてその一部となっています。 サンジョルジ ギャラリーは、実業家 Giuseppe Sangiorgi ジュゼッペ サンジョルジ (1850 ~ 1928) によって 1892 年に設立され、本部はローマのボルゲーゼ宮殿にあります。 20 世紀前半には、世界中の美術品の販売とオークションにおいて最大かつ最も有名な団体の 1 つとしての地位を確立しました。 サンジョルジは、同時代の多くの人々と同様に、彼のコレクションのアンティーク品を市場に戻すために複製するアトリエを経営していました。 写真は、サンプル、コミュニケーション資料、および「モデル」として、ギャラリーおよびニューヨーク、パリ、ロンドンの拠点の内外で、コレクター、画商、アーティスト、写真家の間で流通しました。 時間が経つにつれ、まだ部分的には不明な経路を経て、それらはさまざまなアーカイブにたどり着きました。 たとえば、ボローニャのゼリ財団は、サンジョルジ ギャラリーから大量の写真や図面をコレクションしています。 フィレンツェの写真アーカイブは、これらの文書の堆積の多くの層の 1 つを構成しています。 まさにここで、歴史的芸術的イメージのコレクションという文脈において、サンジョルギ美術館の写真に新しい意味が与えられました。 この研究プロジェクトは、とりわけ、サンジョルジ家とギャラリー自体の歴史を再構築し、20世紀の美術市場の実践を調査することを目的としています。 しかし、主な目的は、この事例研究を通じて、これらの写真を単なる画像として見るのではなく、むしろ自らの伝記を伴う物質的で「三次元」の物体として見ることを選択した場合に、これらの写真のかなりの認識論的価値を実証することである。
Ritratto di papa Gregorio XV
教皇グレゴリウス15世の肖像
技術データ:ブロンズ、64cm
著者:ベルニーニ ジャン・ロレンツォ
デート:1621年頃 – 1628年頃
その他の日程 秒 XIX/XX (1890-1911)
最後に検出された:サンジョルジ ギャラリー、ローマ (ラツィオ州、イタリア)
仕様 すでに
最終/オリジナル作業レポート:オペラスタジアム コピー
初期/最終作品 胸像、教皇グレゴリウス 15 世の肖像
最終作品/オリジナル作品の作者 ベルニーニ ジャン・ロレンツォ
最終作品/オリジナル作品の日付 1621-1622
初期/最終勤務先 アメリカ合衆国 / ピッツバーグ (PA) / カーネギー美術館

Ritratto del cardinale Armand-Jean du Plessis de Richelieu
リシュリュー枢機卿の肖像 キャスト
技術データ:石膏、90cm
著者: 匿名の秒。XIX/XX
デート:1890年頃 – 1930年頃
最後に検出された:サンジョルジ ギャラリー、ローマ (ラツィオ州、イタリア)
仕様 すでに
最終/オリジナル作業レポート:オペラスタジアム キャスト/フェイク
初期/最終作品 胸像、アルマン=ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリュー枢機卿の肖像
最終作品/オリジナル作品の作者 ベルニーニ ジャン・ロレンツォ
最終作品/オリジナル作品の日付 1640-1641
初期/最終勤務先 フランス/パリ/ルーヴル美術館、inv. MR2165